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時の深淵へと沈む、漆黒の記憶
1. 導入 ― 黒が静かに息づく朝
夜の気配がまだ微かに残る松本の空に、北アルプスの稜線がゆっくりと姿を現します。
濠の水面は風をひそませ、どこか遠い時代の呼吸だけが、かすかに波紋となって揺れていました。
その静寂の中央に、ひときわ濃い影が立ち上がります。
松本城――。
黒漆に覆われた天守が、薄明の光をわずかに跳ね返し、深い沈黙を湛えたまま佇んでいるのです。
戦国の世を生き延び、明治の廃城令をもくぐり抜け、今もその姿を保ち続ける天守。
外観五重、内部六階。
現存する五重天守として、最古級の歴史を持つこの城は、単なる軍事施設ではなく、五百年という時間を抱え込んだ“黒の記憶”そのものに思えます。
朝露に濡れた空気は冷たく、ほんのりと木の香りが混じります。
濠の向こうから聞こえる鳥の声すら、どこか遠慮がちに響いてくる――。
この瞬間、訪れる者は誰しも、時の流れがふと緩んだような感覚に包まれるのかもしれません。
松本城は、ただそこに建っているのではありません。
静かに語り、ひっそりと見守り、時に呼吸を潜めながら、五百年の祈りを抱え続けているのです。
2. 松本城 ― 基本情報
正式名称:松本城(まつもとじょう)
別称:烏城(からすじょう)、深志城(ふかしじょう)
所在地:長野県松本市丸の内4-1
天守建造:文禄2〜3年(1593–1594)
主な築城者:石川数正・康長父子
建築様式:
- 複合連結式天守
- 望楼型五重六階 ※望楼型から層塔型への過渡期的性格を持つ
- 大天守・乾小天守(いぬいこてんしゅ)・渡櫓・辰巳附櫓(たつみつけやぐら)・月見櫓
文化財指定:
- 国宝(大天守以下五棟)1936年指定
- 国の史跡(1930年指定)
3. 歴史 ― 武田の影、石川の夢、そして保存の祈り
戦国の深志城 ― 武田信玄の影が落ちる
かつてここには「深志城」と呼ばれる城がありました。
信濃守護・小笠原氏の居城として栄えたものの、天文19年(1550)、武田信玄の侵攻によって落城します。
その後しばらくは武田氏の支配下に置かれ、時代の荒波に翻弄され続けました。
武田氏滅亡後の天正10年(1582)。
小笠原貞慶が深志城を奪還し、「松本城」と改名します。
この一挙が、後に国宝へと連なる長い歴史の始まりとなりました。
しかし当時の信濃は、徳川・北条・上杉という三大勢力に囲まれた緊張の地。
松本城は、ただの城ではなく、生き残りのための象徴だったのです。
石川数正 ― 出奔した武将が見た新たな天守
天正18年(1590)。
豊臣秀吉の小田原征伐後、松本に新たな城主として迎えられたのが石川数正でした。
数正は三河以来の徳川家臣でありながら、
突如家康のもとを離れて秀吉の側に走った人物。
その理由は今も歴史の謎のままです。
しかし松本に入った数正は、新しい城づくりに情熱を注ぎました。
息子・康長の代にかけて築かれたのが、今私たちが目にする漆黒の天守です。
黒漆を全面に施し、望楼型の古式を残した五重天守。
堅牢さと美意識を兼ね備えたその姿は、
石川氏がこの地に築こうとした未来への“願い”でもありました。
江戸の時代 ― 月を見る櫓と平和のしるし
江戸時代に入ると、松本藩では城主が頻繁に交代します。
そして寛永10年(1633)頃、城に一つの優美な櫓が加わります。
――月見櫓です。
三方を吹き抜けにした開放的な空間。
朱塗りの欄干、ゆるやかな曲線の屋根。
戦のための城に、月を愛でるためだけの櫓が付属する――。
これは全国でも珍しい存在です。
平和の時代が訪れたことを告げる“しるし”のように、月見櫓は今も静かに佇んでいます。
明治の危機 ― 市川量造という一人の市民が救った天守
明治維新後、廃城令の波が松本にも押し寄せました。
松本城天守は競売にかけられ、解体寸前に追い込まれます。
その時、ひとりの市井の男が立ち上がりました。
市川量造――筆墨商の店主です。
「この城は、松本の魂だ」
量造は私財を投じ、町の人々に訴え続けました。
最初は誰も耳を貸しませんでしたが、
彼の真摯な願いはやがて多くの市民の心を動かし、保存運動へと発展していきます。
天守はどうにか解体を免れ、
明治36年(1903)から大正にかけて大修理が行われ、傾斜は改善されました。
のちの昭和・平成の修理を経て、松本城は今日までその姿を保っています。
量造がいなければ、私たちが見る松本城は存在しなかったかもしれません。
4. 建築美を読み解く――黒漆に宿る武と静寂
漆黒の外観 ― 烏城の名の由来
松本城が「烏城」と呼ばれる理由は、その黒漆の下見板にあります。
黒は雨を弾き、木を守り、戦国の緊張感を象徴する色でもありました。
白漆喰の姫路城が“白鷺”なら、
松本城はまさに“夜の翼”です。
光を吸い込み、わずかに返す黒。
その静かな質感は、季節ごとにまったく異なる表情を見せてくれます。
複合連結式天守 ― 五棟が語る防御の知恵
松本城天守は、大天守を中心に
乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓が連結された構造。
複数方向から攻撃されても耐えるための工夫であり、
当時の築城技術の粋が結集しています。
望楼型の最上階は、戦国の古式を残した貴重な例。
回縁が静かな風を通し、外の光をかすかに反射させます。
内部の沈黙 ― 木と石の声を聴く
天守に足を踏み入れると、
急な階段、低い天井、狭間から差し込む細い光が続きます。
足音を吸い込む古木の床。
柱がかすかに軋む音。
外の風が狭間を抜けると、かすかな笛のように響くことがあります。
ここには、戦の緊張と静寂が混在する独特の空気があります。
その沈黙は、五百年前の武士たちの息遣いをそっと思い起こさせるのです。
5. 松本城の四季 ― 光と影が描く沈黙の風景
春 ― 桜と黒の対話
桜の薄紅が、漆黒の天守に寄り添うように咲きます。
夜桜会の灯りが揺れると、濠の水面に黒と桜の影が重なり、
どこか夢の中の景色のように感じられることでしょう。
夏 ― 新緑が黒を包む
新緑が濃くなると、黒い天守は緑の中に沈んでいきます。
風が葉擦れの音を運び、天守の影は濠の底でゆっくりと揺れます。
秋 ― 紅と金の静けさ
紅葉が黒を際立たせ、松本城全体が深い余韻に包まれます。
夕日が天守の面ごとに異なる陰影をつくり、
木々の色づきと溶け合っていきます。
冬 ― 白雪に浮かぶ黒の稜線
雪化粧した天守ほど、松本城が美しい季節はありません。
黒と白の対比はただ静かで、ただ美しく、
どこか時間の感覚を失わせるような凛とした空気が漂います。
6. この城にまつわる物語
――静けさの向こうにある三つの記憶
以下の物語は、史実と伝承が交わる“松本の記憶”として語られてきたものです。
【物語① 二十六夜神の光】(伝承)
天守が完成した夜、
月齢二十六の月が昇る刻限に、最上階が淡い光に包まれたと伝えられています。
翌朝、大工の棟梁が登ると、誰も置いた覚えのない小さな祠(ほこら)が静かに置かれていた――。
この祠は「二十六夜神(にじゅうろくやじん)」と呼ばれ、
松本城を守護する神として、江戸の頃まで信仰されたといいます。
城下が焼ける大火の年、
天守だけが無傷で残った出来事も、
人々は二十六夜神の加護だと語り継ぎました。
静かな伝承が、今もこの地にそっと息づいています。
【物語② 傾いた天守を救った市川量造】(史実)
明治のある日、天守は目に見えて傾き始めました。
礎石の沈下によるもので、このままでは倒壊は避けられない――。
「取り壊すしかない」
そう決断されかけた時、
市川量造はただひとり声を上げました。
「松本城を失ってはならない」
彼は私財を投じ、町の人々に呼びかけ、
やがて保存運動の中心となります。
観覧料を取り、修理基金を集め、
専門家もいない時代に自ら石を運び、天守を支え続けました。
ついに明治36年、本格的な修理が認められ、
十年の歳月をかけて天守はよみがえります。
松本城が今も立つのは、
量造という一人の市民の祈りの結果でした。
【物語③ 月見櫓に込められた平和への願い】(伝承+史実)
大坂の陣を経験した松平直政は、
戦が残した深い悲しみを胸に秘めていたといいます。
江戸に戻った直政は、
「武より文」を重んじる藩政を志し、
月を眺める櫓を築くよう命じました。
「この櫓は、戦のために造るのではない。
月を見て、心を解き放つための場としたい」
三方を開放し、狭間を持たない月見櫓。
朱塗りの欄干に腰をかけた直政は、
毎月の十五夜にここで戦没者の冥福を祈ったと言われています。
戦国を終え、平和を希求した武将の祈り。
その静かな残響が、今も櫓にそっと残されています。
7. 鑑賞の作法 ― 黒の沈黙に耳を澄ますために
松本城は、ただ“見る”城ではありません。
“聴く”城であり、“感じる”城です。
天守に入る前に
濠に映る天守をひと呼吸だけ眺めてください。
風が止まった瞬間、天守が水面にゆっくりと沈むように映ります。
天守内部
- 足音を小さく
- 階段はゆっくり
- 柱のかすかな振動を感じながら
進んでみてください。
古木の香りが心を落ち着かせ、
狭間から差し込む光が時間の層を照らします。
最上階
ここは、松本城の“沈黙の中心”です。
外の音がやわらかく吸い込まれ、
遠く北アルプスの稜線だけが静かに浮かび上がってきます。
8. おわりに ― 黒い天守が語るもの
松本城を訪れると、
黒漆の静けさの奥に、幾重もの記憶が沈んでいることに気づきます。
戦国の緊張。
平和を願う祈り。
明治の市民の情熱。
そして、訪れる人々のまなざし。
そのひとつひとつが、
黒い板壁に重ね塗りされた漆のように、
静かに光を宿しているのです。
松本城は、ただの城ではありません。
五百年の祈りを抱えた“黒き記憶”そのものです。
あなたが訪れるとき、
天守はきっと何かを語りかけてくれるでしょう。
声ではなく、
風や光や沈黙を通して――。
どうか、その静かな声に耳を澄ませてください。
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