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風神雷神図屏風――天空を駆ける神々の饗宴

by MJ編集部

1. 概要

金地の輝きの中に、二柱の神が対峙する。片や風袋を操り疾風を呼ぶ風神、片や連鼓を打ち鳴らして雷鳴を轟かせる雷神。俵屋宗達が描いた「風神雷神図屏風」は、日本美術史上最も愛され、最も多く模写された傑作として、四百年の時を超えて私たちの心を揺さぶり続けています。

京都・建仁寺に伝わるこの二曲一双の屏風は、一見すれば力強く荒々しい神々の姿でありながら、どこか愛嬌のある表情を湛え、見る者の心に不思議な親しみを抱かせます。金箔の余白が生み出す無限の空間、雲の間から姿を現す神々の躍動感、そして計算し尽くされた構図の妙。すべてが調和し、まるで画面から風の音と雷の轟きが聞こえてくるかのような臨場感を生み出しているのです。

この屏風の前に立つとき、私たちは単なる絵画を鑑賞しているのではありません。江戸時代初期の京都で、ひとりの絵師が到達した芸術の極致を、そして日本人が古来より畏怖と親しみを込めて見上げてきた自然の力を、時空を超えて体感しているのです。雷神の打ち鳴らす太鼓の音が、風神の操る風袋から吹き出す疾風が、金地の輝きとともに、今もなお生き生きと私たちに語りかけてきます。

2. 基本情報

正式名称:風神雷神図屏風(ふうじんらいじんずびょうぶ)

所蔵:建仁寺(京都市東山区)※現在は京都国立博物館に寄託

制作時代:江戸時代初期(17世紀前半、1600年代初頭)

作者:俵屋宗達(たわらや そうたつ)

種別:紙本金地著色(しほんきんじちゃくしょく)、二曲一双屏風

寸法:各隻 縦154.5cm × 横169.8cm

文化財指定:国宝(1952年(昭和27年)3月29日指定)

所蔵機関:建仁寺(京都国立博物館寄託)

流派:琳派(りんぱ)の祖として位置づけられる

3. 歴史と制作背景

風神雷神図屏風が生まれたのは、戦国の世が終わり、徳川幕府による泰平の世が始まろうとしていた江戸時代初期のことでした。京都の町衆として活躍していた絵師・俵屋宗達は、当時の京都画壇において独自の地位を築きつつありました。彼の工房「俵屋」は、扇絵や料紙装飾などを手がけながら、やがて本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)との協働を通じて、後に「琳派」と呼ばれる装飾的な美術様式の基礎を築いていったのです。

宗達がこの屏風を制作した正確な年代については諸説ありますが、おそらく1600年代の初頭から1630年頃までの間、彼の画業の円熟期に描かれたものと考えられています。この時期の京都は、戦乱の記憶が残りながらも、商工業の発展とともに町衆文化が花開き、新しい美意識が求められていた時代でした。権威的な漢画でもなく、伝統的な大和絵でもない、まったく新しい装飾美術を求める気運が高まっていたのです。

風神と雷神という主題そのものは、古くから日本の寺社に見られるモチーフでした。しかし、宗達以前の風神雷神像は、主に仏教美術の文脈で、二十八部衆(にじゅうはちぶしゅう)の一部として表現されるのが一般的でした。京都・三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)の風神雷神像などがその代表例です。ところが宗達は、これらの仏像彫刻からインスピレーションを得ながらも、仏教的な文脈から神々を解放し、純粋に自然の力の象徴として、画面いっぱいに躍動する姿を描き出したのです。

制作の依頼主については確定されていませんが、建仁寺との関係から、禅宗寺院の高僧あるいは京都の有力な町衆による発注であった可能性が指摘されています。建仁寺は臨済宗の大本山であり、鎌倉時代に栄西によって開かれた由緒ある寺院です。宗達自身、禅の思想や美学に深く触れていたと考えられ、この屏風に見られる大胆な余白の使い方、簡潔でありながら雄弁な表現は、禅画の影響を色濃く反映しているといえるでしょう。

また、当時の京都は、中国や朝鮮半島との文化交流も活発でした。宗達が中国の絵画や工芸品、あるいは朝鮮の陶磁器などから受けた影響も無視できません。特に、中国の道教美術に見られる神仙思想や、明代の絵画に見られる大胆な構図法などが、この作品の成立に何らかの示唆を与えた可能性があります。しかし、宗達はそれらを単に模倣するのではなく、日本独自の感性で消化し、まったく新しい造形言語を創造したのです。

この屏風が後世に与えた影響は計り知れません。尾形光琳は約百年後にこの作品を模写し、さらに酒井抱一へと継承され、琳派の系譜を形成していきました。風神雷神という主題は、日本美術における最も重要なアイコンのひとつとなり、現代に至るまで無数の芸術家たちにインスピレーションを与え続けています。

4. 特徴と技法

風神雷神図屏風の最大の特徴は、その大胆不敵な構図と、金地を最大限に活用した空間表現にあります。二曲一双という比較的小ぶりな屏風でありながら、その画面には無限の宇宙空間が広がっているかのような壮大さが感じられます。これは宗達が到達した、装飾性と写実性、静と動、具象と抽象を高度に融合させた表現の賜物といえるでしょう。

右隻には風神が、左隻には雷神が配されています。この左右対称のようでいて微妙に非対称な配置こそが、画面に緊張感と躍動感を生み出す秘訣なのです。風神は画面右上から左下へと斜めに動き、雷神は左上から右下へと動く。この対角線的な動きが、見る者の視線を自然に左右の屏風の間を往復させ、二柱の神の対話を感じさせます。しかも、両神の視線は互いに向き合っておらず、それぞれが自らの力を解き放とうとしているかのような姿勢が、より一層のダイナミズムを生み出しています。

金地の使い方も見事です。宗達は金箔を単なる背景としてではなく、無限の空間、あるいは光そのものとして扱っています。神々の周囲にわずかに描かれた雲の表現は、「たらし込み」という独特の技法によって生み出されています。これは、まだ乾ききらない絵具の上に別の絵具を垂らし込むことで、偶然性と必然性が交錯する独特のにじみを作り出す技法です。墨と胡粉(ごふん)(白色顔料)を巧みに用いたこの雲は、まるで生きているかのように画面上を漂い、神々の動きをより劇的に演出しています。

神々の肉体表現も注目に値します。風神の緑がかった肌、雷神の白い肌は、それぞれ緑青(ろくしょう)や胡粉などの天然顔料によって描かれています。特に雷神の筋骨隆々とした肉体の描写は、三十三間堂の雷神像を研究した成果が如実に表れており、立体感のある陰影表現が施されています。一方で、その表情は写実的でありながらも、どこかユーモラスで親しみやすく、恐ろしい自然の力でありながら、同時に人間的な温かみも感じさせる絶妙なバランスが保たれています。

風神の持つ風袋、雷神の背負う連鼓といった持物の表現も、細部まで丁寧に描き込まれています。特に雷神の連鼓は、八つの太鼓が円環状に配置された独特の形状で、これを打ち鳴らす雷神の両手の動きが、まさに雷鳴を轟かせる瞬間を捉えています。風神の風袋からは、今にも激しい風が吹き出してきそうな臨場感があり、布の質感まで伝わってくるような筆致(ひっち)です。

宗達の筆遣いは、力強さと繊細さが共存しています。輪郭線は「付立て(つけたて)」という技法で、下書きなしに直接筆を走らせることで生まれる生命力に満ちています。そして、その線は太さや濃淡に変化があり、まるで書道の筆致のような躍動感を持っています。この即興性と計算された構図の完璧さが両立している点に、宗達の天才性が現れているのです。

5. 鑑賞のポイント

風神雷神図屏風を鑑賞する際には、まず全体を俯瞰してその大胆な構図を味わうことから始めましょう。二隻の屏風を並べて見たとき、金地の余白がいかに雄弁に語りかけてくるかを感じ取ってください。この「間」こそが、日本美術の真髄であり、描かれていない空間が、描かれているものと同等、いや、それ以上に重要な意味を持っているのです。

次に、左右の神々の動きと表情に注目してみましょう。風神は風袋を両手で抱え、やや前かがみの姿勢で疾風を解き放とうとしています。その表情には、自然の力を操る者の真剣さと、どこか誇らしげな様子が見て取れます。一方の雷神は、筋骨隆々とした肉体を誇示するかのように、両腕を高く掲げて連鼓を打ち鳴らしています。その表情は風神よりも激しく、まさに雷鳴の轟きを体現したような迫力があります。しかし、よく見るとその目元や口元には、どこか愛嬌のある表情も隠されており、恐ろしいだけではない、親しみやすさも感じられるのです。

雲の表現にも目を凝らしてみてください。たらし込みの技法によって生み出された雲は、墨と胡粉の微妙な濃淡によって、立体感と透明感を同時に表現しています。雲の形状は偶然性に任せられているようでいて、実は神々の動きを最も効果的に見せるように計算されて配置されています。この偶然と必然の絶妙なバランスこそ、宗達芸術の神髄なのです。

細部の表現も見逃せません。風神の風袋の結び目、雷神の連鼓の装飾、神々の指先の動き、足の爪の表現など、隅々まで丁寧に描き込まれています。特に、両神の足元に注目すると、彼らが雲の上を駆けているような躍動感が伝わってきます。重力を感じさせない、まさに天空を自在に飛翔する神々の姿がそこにあります。

もし実物を見る機会に恵まれたなら、金箔の輝きと質感もぜひ体感してください。時代を経た金箔は、新しい金箔とは異なる、深く落ち着いた輝きを放っています。光の角度によって表情を変える金地は、神々の動きをより神秘的に、より劇的に演出しているのです。朝の柔らかな光の中で見る風神雷神と、午後の強い光の中で見る風神雷神では、また違った表情を見せてくれることでしょう。

6. この文化財にまつわる物語(特別コラム)

謎多き絵師・俵屋宗達

俵屋宗達の生没年は不詳で、その前半生は多くの謎に包まれています 俵屋宗達《風神雷神図屏風》 鉢巻をした雷神に見る聖と俗の美──「佐藤康宏」:アート・アーカイブ探求|美術館・アート情報 artscape +2。最初に美術史上に登場するのは慶長7年(1602年)の福島正則主導による平家納経の修復作業時で、このとき40歳に近い年齢であったと見られています。

「俵屋宗達」という名は、扇絵や屏風絵、金銀泥(きんぎんでい)の下絵といった絵画を制作販売する「俵屋」を営んでいたことからつけられたものです。絵師として知られるようになったのは、芸術家・本阿弥光悦が自身の書の下絵を宗達に描かせたことがきっかけでした。

宗達は寛永年間には法橋の位にあり、本人の書いた手紙や茶人との交流の記録が残されています。京都で絵屋という絵の仕事を手広く営みながら、一方ではお茶の席に参加したり、絵巻や南宋末の画僧・牧谿(もっけい)などの水墨画を見るなど、美術の研究に熱心な人物だったと考えられています。60歳を過ぎたころ、朝廷から僧侶の位階に準じた高位「法橋(ほっきょう)」に叙せられました。これは、町人としては異例の大出世でした。

風神雷神図屏風には、款記も印章も残されていません。しかし、この屏風が俵屋宗達の作品であることを疑う人はいないとされるほど、作風から宗達の真筆と認められています。

妙光寺での制作と文化人たちの交流

美術史家の仲町啓子氏によると、風神雷神図屏風は建仁寺のために制作されたのではなく、京都・妙光寺のために描かれたとされています。臨済宗建仁寺派の妙光寺は、弘安8年(1285年)に法燈国師を開山に迎えた「京都十刹」の寺格を有する禅刹です。

この妙光寺には宗達や同じような趣味、教養をもっていた上層町衆、また宮廷文化人の烏丸光広(からすまるみつひろ)や、後水尾院(ごみずのおいん)などの公家たち一流の文化人が集まっていました。こうした文化サロンのような環境の中で、風神雷神図屏風は生まれたのです。

応仁の乱以来荒廃していた京都の妙光寺を再興する際の、当時の豪商の注文によって制作されたと言われています。そこでは、和歌を詠むなどの風雅な空間作りが意図されました。当時の価値観では、寺の再興のためには「華々しさ」が必要でした。それが、金箔を贅沢に使った華やかな屏風が生まれた背景なのです。

光琳との百年を超えた邂逅

風神雷神図屏風が描かれてから約百年後、尾形光琳は宗達の原画に忠実な模写を残しました。当時、風神雷神図は建仁寺の末寺妙光寺にあったと解されていますが、この寺は光琳の弟・乾山が営み、光琳のパトロン、二条家の別荘にあった鳴滝窯(なるたきがま)とほど近く、乾山が陶法を学んだ野々村仁清の墓所もあります。こうした巡り合わせも手伝って、光琳はこの名品に出会ったのだと考えられます。この邂逅は、およそ宝永末年(1711年)頃だと研究者たちは推測しています。

2006年秋、出光美術館で開催された『国宝 風神雷神図屏風 宗達・光琳・抱一 琳派芸術の継承と創造』展で、3点の風神雷神図屏風が一堂に会しました。このとき明らかになった重要な発見は、光琳本が宗達本の輪郭線と一致したという事実です。体躯や衣文線などの輪郭線では驚くべき忠実さで宗達画がトレースされたことが明らかになりました。このことから、光琳は単に屏風を瞥見した程度ではなく、時間と手間を惜しまず実際に宗達の作品を正確に写し取ったことがはっきりしたのです。

この風神雷神図を描いた1711年ごろ、既に売れっ子だった光琳があえて模写を行った理由は定かではありません。しかし晩年にこの構図を用いて傑作「紅白梅図屏風」を描いたことから、風神雷神図は光琳の画家人生にとって極めて重要な一作だったと考えられています。

抱一の返歌――屏風の裏に描かれた草花

さらに約百年後、酒井抱一(さかいほういつ)は光琳の模写をさらに模した画を描きましたが、宗達の画を知らず、光琳の画が模写でなく独自に描かれたものとして考えていたと見られています。抱一は武家の名門酒井雅楽頭家出身という異色の経歴を持っており、琳派でありながらも江戸を拠点として活動していました。

抱一の光琳に対する返歌は、元々光琳本の裏に描かれ、天上の神から風雨を受け、地上で揺らめく草花を描いた抱一の最高傑作、『風雨草花図屏風』(『夏秋草図屏風』)です。これは若い頃から俳諧など芸文に熱中していた抱一らしい、風雅で洒脱な趣向といえるでしょう。この作品は、保存上の問題から1974年(昭和49年)に風神雷神図屏風から分離されて、別の屏風に仕立て直されました。現在は両方とも東京国立博物館が所蔵しています。

こうして、宗達から光琳へ、光琳から抱一へと、百年ごとに受け継がれた風神雷神図屏風は、琳派の系譜を象徴する作品となり、日本美術史に確固たる地位を築いたのです。

7. 現地情報と観賞ガイド

所蔵・展示情報

風神雷神図屏風の実物は、建仁寺が所蔵していますが、文化財保護の観点から、現在は京都国立博物館に寄託されています。通常は京都国立博物館の平常展示室で公開されることがあり、特別展などでも定期的に展示される機会があります。ただし、国宝級の作品であるため、展示期間は限定的で、常時展示されているわけではありません。

京都国立博物館

  • 所在地:〒605-0931 京都府京都市東山区茶屋町527
  • 開館時間:9:30〜17:00(入館は16:30まで)※特別展期間中は延長あり
  • 休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
  • 観覧料:平常展 一般700円、大学生350円(特別展は別料金)
  • 問い合わせ:075-525-2473

建仁寺では、高精細複製品が法堂(はっとう)の天井画として、また寺内の他の場所でも展示されています。こちらは通常拝観で見ることができます。

建仁寺

  • 所在地:〒605-0811 京都府京都市東山区小松町584
  • 拝観時間:10:00〜17:00(入場は16:30まで)
  • 拝観料:一般600円、中高生300円、小学生200円
  • アクセス:京阪電車「祇園四条駅」から徒歩7分、阪急電鉄「河原町駅」から徒歩10分
  • 問い合わせ:075-561-6363

アクセス方法

京都国立博物館へのアクセス

  • 京都駅から:市バス100系統、206系統、208系統で「博物館三十三間堂前」下車すぐ
  • 京阪電車:「七条駅」から徒歩7分
  • 駐車場:あり(有料)

建仁寺へのアクセス

  • 京都駅から:市バス206系統で「東山安井」下車、徒歩5分
  • 京阪電車:「祇園四条駅」から徒歩7分
  • 阪急電鉄:「河原町駅」から徒歩10分

観賞の所要時間とおすすめルート

京都国立博物館で風神雷神図屏風を鑑賞する場合、作品単体であれば30分程度じっくり時間をかけて見ることをおすすめします。ただし、博物館全体を回るのであれば、2〜3時間は確保したいところです。

建仁寺を訪れる場合は、境内全体の拝観も含めて1時間半〜2時間程度を見込むとよいでしょう。法堂の天井画「双龍図」、方丈庭園「○△□の庭」、茶室なども見どころが多く、ゆっくりと禅寺の雰囲気を味わうことができます。

周辺のおすすめスポット

祇園エリア:建仁寺は祇園の中心に位置しており、花見小路や八坂神社まで徒歩圏内です。京都らしい風情を存分に楽しめます。

三十三間堂:京都国立博物館のすぐ隣にあり、宗達が風神雷神のインスピレーションを得た風神雷神像を見ることができます。両方を訪れることで、宗達の創造のプロセスをより深く理解できるでしょう。

清水寺:建仁寺から徒歩15分程度。世界遺産の名刹で、京都観光の定番スポットです。

高台寺:豊臣秀吉の正室・北政所ねねが開いた寺。美しい庭園と茶室があり、季節ごとの特別拝観も魅力です。

特別拝観・イベント情報

建仁寺では、春と秋に特別拝観が行われることがあり、通常は非公開のエリアが公開されることがあります。また、京都国立博物館では、定期的に琳派に関する特別展が開催され、風神雷神図屏風が展示される貴重な機会となります。最新の展示情報は、各施設の公式ウェブサイトで確認することをおすすめします。

8. マナー・心構えのセクション

風神雷神図屏風をはじめとする文化財を鑑賞する際には、いくつかの基本的なマナーを心得ておくことで、より深く作品と向き合うことができます。

撮影について:京都国立博物館では、展示室内での撮影は原則禁止されています。建仁寺では、場所によって撮影可能なエリアもありますが、必ず現地の指示に従ってください。複製品であっても、他の参観者の妨げにならないよう配慮しましょう。

作品との距離:屏風などの作品に近づきすぎないよう注意してください。展示ケースに触れることも避けましょう。作品の保護と、他の鑑賞者への配慮の両面から大切なマナーです。

静かな環境:寺院内や美術館内では、静かに鑑賞しましょう。特に建仁寺は修行の場でもありますので、静謐(せいひつ)な雰囲気を大切にしてください。

服装:建仁寺の畳敷きの部屋を拝観する際は、靴を脱いで上がります。靴下の着用をおすすめします。

これらのマナーは、決して堅苦しいものではなく、作品を守り、次の世代に伝えていくための、そして他の鑑賞者とともに心穏やかに文化財と向き合うための、ごく自然な心遣いなのです。

9. 関連リンク・参考情報

公式サイト

関連施設

  • 京都市東山区役所観光情報:京都市東山区の観光スポット情報
  • 京都観光Navi:https://ja.kyoto.travel/

関連書籍・資料

  • 『琳派の至宝 風神雷神図屏風』(京都国立博物館)
  • 『もっと知りたい俵屋宗達―生涯と作品』(東京美術)
  • 『琳派 その美の系譜』(河出書房新社)

画像出典

 ・wikimedia commmons

・From Ninna-ji temple, Kyoto. Japan Times https://www.japantimes.co.jp/culture/2015/11/03/arts/kyotos-rinpa-school-moving-many-ways/

10. 用語・技法のミニ解説

琳派(りんぱ)

琳派とは、江戸時代初期に俵屋宗達が創始し、尾形光琳、酒井抱一らによって受け継がれた装飾的な美術様式のことです。「琳派」という名称は、光琳の「琳」の字から取られています。最大の特徴は、大胆な構図、装飾性の高い色彩、金銀箔の効果的な使用、そして自然のモチーフを様式化して表現することにあります。狩野派や土佐派のような師弟関係による継承ではなく、私淑(直接師事せずとも、その作品や精神に学ぶこと)という形で継承されたことも特徴的です。宗達から光琳までは約百年、光琳から抱一までも約百年の時を隔てており、時代を超えて精神が受け継がれていった点で、日本美術史上きわめてユニークな存在となっています。琳派の作品は、現代のデザインやファッションにも大きな影響を与え続けており、その普遍的な美しさは時代を超えて愛されています。

たらし込み

たらし込みとは、まだ乾ききらない絵具の上に、別の色や濃度の絵具を垂らし込むことで、独特のにじみやぼかしの効果を生み出す日本画の技法です。風神雷神図屏風の雲の表現に顕著に見られるこの技法は、偶然性と作家の意図が絶妙に交錯する、きわめて高度な表現方法といえます。絵具が紙に浸透していく瞬間を見極め、最適なタイミングで次の絵具を加えなければならないため、長年の経験と鋭い観察眼が必要とされます。宗達はこの技法を駆使することで、雲の立体感と透明感、そして動きを同時に表現し、画面に神秘的な空気感を生み出しました。後の琳派の絵師たちもこの技法を継承し、発展させていきました。

付立て(つけたて)

付立てとは、下書きや輪郭線を描かずに、直接筆で形を描き起こす技法のことです。風神雷神図屏風の神々の肉体や衣服の輪郭線は、この付立ての技法によって描かれています。下書きがないため、一筆一筆に迷いがあってはならず、構図全体を頭の中で完璧に把握した上で、確信に満ちた筆致で描き進める必要があります。この技法によって生まれる線には、生命力あふれる躍動感があり、まるで書道の筆致)のような勢いと力強さが感じられます。宗達の付立ての技術は、長年の修練によって培われたものであり、その自在な筆遣いは、後世の絵師たちの憧れの的となりました。

金地(きんじ)

金地とは、金箔を貼った地面(背景)のことを指します。風神雷神図屏風では、画面のほとんどが金地で占められており、この金地こそが作品の印象を決定づける重要な要素となっています。金地は単なる装飾ではなく、無限の空間を表現し、光そのものを象徴し、神々の神聖さを際立たせる役割を果たしています。また、金箔は光の角度によって表情を変えるため、時間帯や照明によって作品の見え方が大きく変化します。室町時代から桃山時代にかけて、金碧障壁画が流行し、金地の使用は日本絵画の重要な伝統となりました。宗達は、この伝統を継承しながらも、余白としての金地という新しい解釈を提示し、琳派様式の基礎を築いたのです。

二曲一双(にきょくいっそう)

二曲一双とは、屏風の形式のひとつで、二枚のパネル(曲)からなる屏風を一対(双)で構成したものを指します。風神雷神図屏風はこの形式で、右隻に風神、左隻に雷神が描かれています。六曲一双や八曲一双に比べて小ぶりな形式ですが、その分、より親密な空間での鑑賞に適しており、茶室や書院などで用いられることが多かったとされています。二曲という限られた画面だからこそ、宗達は余分な要素を一切排し、風神と雷神という主題に絞り込むことで、最大限の効果を生み出すことに成功しました。この形式の選択も、作品の完成度を高める重要な要素だったのです。

国宝(こくほう)

国宝とは、日本の文化財保護法に基づいて指定される、日本国内に存在する文化財の中でも特に価値の高いものを指します。重要文化財の中から、さらに「世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝たるもの」として選ばれます。風神雷神図屏風は、1951年(昭和26年)に国宝に指定されました。国宝の指定を受けた文化財は、厳重な保存管理が義務づけられ、修理や展示に際しても文化庁の許可が必要となります。現在、日本には約1,130件の国宝が存在し(2024年時点)、そのうち絵画は約160件です。国宝は日本人の誇りであり、未来の世代に継承すべき貴重な遺産なのです。


おわりに

風神雷神図屏風は、四百年の時を超えて、今なお私たちの心を揺さぶり続けています。金地の輝きの中で躍動する二柱の神々は、自然の力の象徴であると同時に、日本人の美意識の結晶でもあります。宗達が到達した芸術の高みは、光琳から抱一へと受け継がれ、現代のアーティストたちにも霊感を与え続けているのです。

この屏風の前に立つとき、私たちは単なる過去の遺物を見ているのではありません。時代を超えて生き続ける創造の精神、日本人が守り伝えてきた美の伝統、そして未来へと継承すべき文化の礎を、そこに見出すのです。金地に描かれた風と雷の神々は、これからも永遠に天空を駆け続け、私たちに美と創造の喜びを伝え続けることでしょう。

京都を訪れる際には、ぜひこの風神雷神図屏風との出会いを体験してください。それは、日本美術の真髄に触れる、かけがえのない時間となるはずです。四百年前の絵師が込めた魂と、現代を生きる私たちの心が、金地の輝きの中で静かに響き合う瞬間を、どうか味わっていただきたいのです。

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