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雅楽三管:時を超えて響く、三管の祈り、そしてその深遠な歴史
1. 概要(導入)
朝靄が静かにたなびく内裏の庭。まだ人の気配の薄い静寂の空間に、ふと一筋の音が立ち上る――。
それは、哀愁を帯びたオーボエのような、鋭くも切実な篳篥(ひちりき)の声であり、そして教会のオルガンのように天上から差し込む光のような笙(しょう)の和音であり、さらには日本のフルートのように風となって空を渡る龍笛(りゅうてき)の旋律である。
雅楽は古代に中国大陸や朝鮮半島を起源とする音楽・舞踊として日本に伝わり、その後日本で独自の進化を遂げた、まさに宮廷音楽の結晶です。奈良・平安時代に成立し、そして今日に至るまで宮中を中心に大切に継承されています。その中心にあるのが、篳篥・笙・龍笛という三つの管楽器、通称「三管」です。この三管は、それぞれが全く異なる音色と役割を持ち、まるで一つの小さなオーケストラのように機能することで、儀礼・信仰・美意識を音として結晶させた、実に独特な雅楽の世界を築いています。
初めて雅楽に触れる人も、この三管の美しい音色に身を委ねたとき、時の流れが緩やかにほどけていく感覚を覚えるでしょう。静謐でありながら、確かな生命の鼓動を宿す音楽――その奥深い魅力へ、いま静かに歩みを進めたいと思います。心が洗われるような、そんな体験が待っているのです。
2. 基本情報と雅楽の全体構成
本章では、雅楽器(三管)の無形文化財的な側面を整理し、そして雅楽全体の構造を概観します。
雅楽の基本構成:三つの要素
雅楽は、大きく分けて以下の三つの要素で構成されています。それぞれが独自の魅力を持ち、互いに響き合っているのです。
管絃(かんげん): 楽器演奏のみの形態で、雅楽の純粋な音楽性を示します。
舞楽(ぶがく): 楽器演奏に合わせて舞が加わる形態です。
歌物(うたもの・声楽): 古代歌謡や朗詠など、雅楽全体の一部として位置づけられる歌唱を伴う形態です。
舞楽の内部分類
上記の「舞楽」は、伝来元の違いによりさらに二つのカテゴリーに分けられます。そして、この分類こそが、雅楽の多様性を物語っているのです。
左舞(さまい): 唐・天竺(インド)系に由来。鮮やかな赤い装束が多く、まるで炎のような華やかさです。龍笛が主旋律を担います。
右舞(うまい): 高麗・渤海系に由来。一方で、緑の装束が多く、自然の静けさを感じさせます。主に横笛として高麗笛(こまぶえ)や龍笛などが用いられます。
三管の基本情報
正式名称: 篳篥(ひちりき)、笙(しょう)、龍笛(りゅうてき)
伝承・管理: 宮内庁式部職楽部(東京都千代田区)が中心となり、代々大切に伝承されています。
成立・伝来: 6〜8世紀頃に東アジア(中国・朝鮮半島)から伝来し、そして奈良〜平安時代(8〜10世紀頃)に日本の宮廷音楽として見事に整いました。
文化財指定: 雅楽(ががく)自体が重要無形文化財(1955年[昭和30年]5月12日指定)に指定されており、宮内庁式部職楽部がその伝承・演奏を担っています。さらに、雅楽は2009年にユネスコ無形文化遺産にも登録されました。これは、日本の文化が世界に誇る貴重な遺産として認められた証なのです。なんとも誇らしく、そして感慨深い瞬間でした。
3. 歴史と日本化のプロセス
雅楽の歴史は、ただ音楽が伝わっただけでなく、日本という風土の中で大陸の文化が「国風化(日本化)」された過程そのものです。まさに、文化の融合と昇華の物語と言えるでしょう。そして、その過程には、深い精神性が息づいているのです。
篳篥:嘆きと祈りの声
篳篥は、もともと西域から中国に伝わった楽器がルーツであり、その音域の狭さにもかかわらず、人の声に最も近い表現力を持っています。このため、仏教儀礼や国家的な祭祀では、神仏と人との間の切実な感情を伝える媒体として非常に重んじられました。そして、平安時代、和歌や物語文学が華やかに発展する中で、篳篥の持つ叙情性や哀愁が、特に日本人の繊細な感情表現に適していると認識され、主旋律楽器としての揺るぎない地位を確立しました。まるで、篳篥は日本人の心そのものを奏でる楽器となったかのようです。
笙:天上の和声の創造
笙は中国の古い楽器である「笙」が伝来したものですが、しかしながら、平安時代に日本独自の調律と奏法が発展しました。笙が奏でる和音は、西洋音楽のように和音進行によって物語を紡ぐものではなく、「一瞬の光」や「浄土の風景」を表すために静止した響きを重視します。この思想は、当時の貴族の間に広まっていた密教的な世界観や、自然の静謐な美しさを尊ぶ日本独自の美意識と深く結びついています。まるで、音が光となって空間を満たすかのようです。そして、その瞬間、聴く者は時を忘れ、永遠の中に包まれるのです。
龍笛:空間と時間の描写
龍笛は、同じ横笛である中国の「横笛」や高麗の「高麗笛」と比べて管が太く、音量が大きく、そして響きに広がりがあることが特徴です。龍笛の音色と響きが、日本の景観の描写と関連づけて解釈されることがありますが、これは日本化の過程で生じた音色の変化が、当時の日本的美意識と結びついたものと捉えられます。さらに、雅楽の演奏では、曲のテンポが非常にゆっくりとしていますが、龍笛はその広大な空間を悠然と飛び回る龍のように、旋律に方向性を与え、聴き手を時間軸から解放する役割を担っています。まさに、天空を舞う龍の息吹そのものなのです。
4. 楽器構造と特有の製作技法
篳篥(ひちりき)
篳篥は全長約18cmで、主材は竹であり、内部は円錐状にくり抜かれています。音の源は葦を削り出した蘆舌(ろぜつ:リード)ですが、このリードは演奏前に水に濡らしてしなやかにする手間が必要です。そして、篳篥の奏法である「塩梅(あんばい)」は、ただ音階をなぞるのではなく、音程を不安定に揺らがせることで、「人の心の機微」を表現する雅楽独特の技術です。この繊細な技法こそが、篳篥の魂と言えるでしょう。まるで、人の心が音となって溢れ出るかのようです。
笙(しょう)
笙は17本の竹管と木製の胴から成り、鳳凰が翼を休める姿を象っています。各管には金属製の簧(した:フリーリード)が仕込まれており、息を吸う時、吐く時の両方で音を出すことができます(吹奏・吸奏)。実に興味深いことに、この構造が笙に独特の持続音を可能にしているのです。
さらに、笙は演奏前後に湿気を防ぐため温め乾燥させるなど、音が出るように丁寧に調整されることがあります。
そして、17本の竹管のうち、実際に音が鳴るのは15本であり、残りの2本(也・毛)は、楽器の左右対称性を保ち、伝統的な美観を維持するために設けられた飾管です。この美しい対称性も、雅楽の美意識の表れなのです。形の美しさと機能の美しさが見事に調和しているのですね。
笙の演奏者が常に和音を保ち続ける姿は、雅楽全体の調和を支える「光の柱」とも称されます。まさに、天と地を結ぶ神聖な存在であり、その姿は見る者の心を打つのです。
龍笛(りゅうてき)
龍笛は全長約40cmで、主に煤竹などの竹材を用い、七つの指孔が設けられています。龍笛の内径は西洋のフルートのように均一ではなく、微妙な揺らぎを持っており、これが豊かな倍音を生み出します。削りすぎず、残しすぎず、その均衡点を探る作業は、熟練の職人の「静かな祈り」とも例えられます。まさに、職人の魂が込められた逸品なのです。
5. 鑑賞のポイントと三管の「役割分担」
雅楽を味わう最良の時間帯は、夕刻から夜にかけてです。薄暮の中で音が立体的に広がり、そして三管の役割が明瞭に感じ取れます。初心者の方は、まず三管の「役割分担」を意識して聴くと、より深く楽しめます。そうすることで、雅楽の奥深さがきっと理解できるはずです。
篳篥(主旋律:ボーカリスト):旋律の「揺らぎ」と「塩梅(あんばい)」という人の声のような表現に注目してください。曲の情感を担っており、聴く者の心に直接語りかけます。
龍笛(流れ・広がり:メロディの補完):旋律が舞や場の動線と呼応する「動き」に耳を傾けましょう。音が伸びて空間を埋めていく様子を感じてください。まるで、風が吹き渡るかのようです。
笙(和音・基盤:天空の響き):音が重なった「塊」が変化するところに注目です。常に鳴り響き、演奏全体を包み込む「光」のような存在です。これこそが、雅楽の根幹なのです。
特に雅楽は、西洋音楽のように指揮者がリズムを刻むことはありません。篳篥、龍笛、笙などが互いに重なり合う形で旋律と音響を織りなす伝統的な形式をとっており、互いの響きを整えながら合奏が行われます。これは、まさに呼吸を合わせる「以心伝心」の世界なのです。言葉を超えた、深い絆で結ばれているのですね。
6. 雅楽と西洋音楽の決定的な違い
雅楽を理解する上で重要なのは、西洋音楽(クラシック)とは根本的に異なる価値観で成立している点です。それでは、その違いを詳しく見ていきましょう。
① リズム(拍子)の概念
西洋音楽は一定のテンポと拍子(メトロノーム的なリズム)に厳格ですが、一方で雅楽は「延ばし」の文化です。ゆっくりとした拍子が何小節も続く中、演奏者がそれぞれに呼吸を合わせるため、「間(ま)」が重視されます。そして、この「間」の感覚こそが、雅楽の静謐で深い精神性を生み出しているのです。まるで、時間そのものが伸び縮みするかのような、不思議な感覚に包まれます。
② 和音の目的
西洋音楽の和音は、緊張(不協和音)と解放(協和音)を繰り返し、時間の流れの中で物語を紡ぎます。しかしながら、笙が奏でる雅楽の和音は、その場に静止した美、あるいは永遠性を表現します。和音自体が目的であり、変化は緩やかで、天上の光が差し替わるような印象を与えます。これは、まさに「永遠の今」を表現する芸術なのです。そして、その瞬間、私たちは時を超えた世界に立ち会うのです。
7. 途切れなかった雅楽の歴史的背景
約1200年の間、権力者の変遷や戦乱を経る中で、雅楽はその演奏機会が大きく衰退する断続的な衰退期を経ながらも、驚くべきことに、その伝承は継続されました。これは宮廷外の「楽家」の存在と、その「世襲」による技術継承システムのおかげです。まさに、奇跡的な継承の物語と言えるでしょう。そして、この物語には、先人たちの深い献身が刻まれているのです。
世襲制による専門化: 平安時代以降、大戸家、安倍家、豊原家など、特定の家系(楽家)が楽器の演奏技術や楽譜、そして儀礼の知識を代々大切に継承しました。これにより、外部の政治や社会情勢が激しく変化しても、内部で技術が守られ続けました。まるで、守り抜かれた宝のように、芸が受け継がれてきたのです。
権力者との結びつき: さらに、江戸時代、武家政権は朝廷の存続を保障する中で、雅楽を「宮中の儀礼」として尊重し、楽家への俸禄支給を承認するなどして間接的な保護を行いました。雅楽は、単なる芸能ではなく、国家の格式を象徴する役割を担っていたため、時の権力者にとってその存在を維持することが重要でした。そして、このような保護があったからこそ、雅楽は今日まで生き続けることができたのです。
雅楽の伝承は、日本の文化史上、最も成功した文化継承システムの一つと言えます。まさに、誇るべき遺産なのです。
8. この文化財にまつわる物語(特別コラム)
① 篳篥の音に救われた夜
平安時代、ある若い楽人が初めて内裏で篳篥を吹いた夜のこと。緊張のあまり、音が震え、息が続かない。しかし、演奏後、年長の楽人は静かに言いました。「篳篥は、心の奥を隠せぬ楽器だ」。その夜、若者は技ではなく、心で音を吹いたことを知るのです。そして、その経験が彼を一人前の楽人へと成長させました。
② 笙と鳳凰のたとえ
笙はなぜ鳳凰に喩えられるのか。ある貴族が初めて笙の音色を聴いたとき、和音が重なった瞬間、場の空気が一変し、人々は言葉を失いました。音は目に見えぬはずなのに、そのとき確かに「光」となってそこにあった。笙は、天と地を結ぶ象徴として、音以上の意味を担ってきたのです。まさに、神聖な存在だったのですね。
③ 龍笛に託された願い
戦乱の世、都を離れた楽人が一本の龍笛を携えていました。やがて世が落ち着き、再び雅楽が奏される日が来たとき、その龍笛の音は、かつてよりも深く、遠くまで響いたと伝えられます。龍笛は、空を渡る音として、人の願いを時代の彼方へ運んできたのです。そして、その音色には、失われた時への祈りが込められていたのです。
9. 現地情報と鑑賞ガイド
雅楽の主な鑑賞機会は、宮内庁主催の雅楽演奏会や、各地神社仏閣での奉納演奏(春・秋の例大祭など)です。ぜひ、一度足を運んでいただきたいと思います。
主な鑑賞場所: 皇居周辺(一般公開演奏は抽選制が多い)や、国立劇場(演奏会開催時)が主な会場です。また、明治神宮や熱田神宮など、歴史ある神社での奉納も重要な機会です。
拝観・鑑賞料: 演奏会により異なります(無料〜数千円)。
おすすめルート: 事前解説付き演奏、実演、質疑応答(実施時)の順に楽しむと、楽器の役割や曲の背景が深く理解できます。そして、より深い感動が得られることでしょう。
10. マナー・心構え
雅楽は静けさを尊ぶ芸能であるため、演奏中の私語や過度な撮影は控え、音の余韻に身を委ねることが大切です。拍手も曲の区切りを見極め、周囲と調和する心持ちが望ましいとされます。さらに、携帯電話や電子機器の電源は必ず切りましょう。雅楽は、心で聴く音楽なのです。そして、その静寂の中で、真の美が現れるのです。
11. 用語・技法のミニ解説
篳篥(ひちりき): 主旋律を担う竹製の管楽器。人の声に近い、鋭い音色が特徴です。
笙(しょう): 和音を奏でる唯一の楽器。竹管が複数集まり、パイプオルガンのような響きを生みます。
龍笛(りゅうてき): 横笛。澄んだ音色で旋律に流れと広がりを与えます。
蘆舌(ろぜつ): 篳篥の発音体。リードのこと。葦製で、音色を決定づける重要部位です。
楽家(がくけ): 雅楽を代々、世襲で伝えてきた家系。
塩梅(あんばい): 篳篥の奏法。指や唇、息の加減で音程を微妙に揺らし、感情を表す技法です。
高麗笛(こまぶえ): 舞楽の右舞(朝鮮系)で主に用いられる横笛。龍笛よりも細く、高音域が特徴です。
12. まとめ:時を超えて響く祈り
雅楽は、単なる音楽ではありません。それは、約1200年の時を経て、今なお私たちに語りかける、先人たちの祈りなのです。三管の音色は、時代を超えて人々の心に響き続け、そして私たちに静謐な美の世界を開いてくれます。
初めて雅楽を聴く方も、この記事をガイドに、ぜひその奥深い世界に足を踏み入れてみてください。きっと、新しい感動があなたを待っています。そして、その瞬間、あなたは時を超えた旅に出ることでしょう。心が洗われ、魂が浄化される、そんな体験があなたを待っているのです。
作品名:京都広場の伝統的なオーケスター
著作者:ミヤ.m
ライセンス:クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0(Creative Commons 表示-継承 3.0 ライセンス)
出典元:wikimedia commons