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聖徳太子の「法華義疏」―日本仏教理解の原点

by MJ編集部
asuka

聖徳太子の「法華義疏」―日本仏教理解の原点

1. 概要

長さ57メートルにおよぶ巻物を、そっと広げていく。薄茶褐色の紙に記された文字は、1400年の時を経てもなお、驚くほど鮮明です。

ところどころ削られた跡、貼紙で覆われた修正、裏から当てられた補修――この書物は、完成された清書本ではありません。思索の過程そのものが、今も紙面に静かに息づいています。

法華義疏とは

法華義疏(ほっけぎしょ)。飛鳥時代、聖徳太子が法華経の教えを深く理解し、人々に伝えるために著したとされる注釈書です。「法華」とは大乗仏教の根本経典である「法華経(ほけきょう)」を、「義疏」とは経典の意味を詳しく解き明かした注釈書を意味しています。

『日本書紀』には推古天皇14年(606年)、聖徳太子が岡本宮で『法華経』と『勝鬘経』を講じた記録が残されています。その講義をもとに、推古天皇17年から23年(609-615年)にかけて執筆されたとされるこの書は、中国から伝来した仏教を、この列島で初めて体系的に理解しようとした情熱の結晶なのです。

特に一乗思想――すべての人々が平等に仏になれるという教え――を重視している点が特徴的です。この平等への深い共感が、随所から静かに伝わってきます。

複雑な成立過程

全4巻からなる巻物には、中国六朝から隋にかけての書風の影響を受けた楷書体の文字が記されています。随所に見られる推敲の跡や貼紙による修正、さらに近年の科学的分析により明らかになった複数の筆跡の混在――これらは、この書物が単独の著者による一度の執筆ではなく、長い時間をかけて複数の人物が関与した複雑な成立過程を持つことを物語っているのです。

現在は御物(皇室私有物)として宮内庁が厳重に管理されています。約1400年という途方もない時を超えて、今なお日本仏教史における重要な資料として研究が続けられている、稀有な存在です。

2. 基本情報

  • 正式名称:法華義疏(ほっけぎしょ)
  • 別名:法華経義疏(ほけきょうぎしょ)
  • 制作時代:飛鳥時代 推古天皇22-23年(614-615年)頃
  • 作者:聖徳太子(厩戸皇子/うまやどのおうじ)撰とされる
  • 種別:古文書・仏教典籍
  • 材質:紙本墨書、4巻
  • 各巻の長さ:巻一14.24メートル、巻二14.52メートル、巻三15.28メートル、巻四13.30メートル(合計約57メートル)
  • 文化財指定状況:御物(皇室私有物)
  • 所蔵:宮内庁
  • 世界遺産登録:なし

3. 歴史と制作背景

三経義疏の執筆

推古天皇の時代、仏教は百済を経由して6世紀中頃に日本に伝来していました。『日本書紀』には推古天皇14年(606年)、聖徳太子が岡本宮で『法華経』と『勝鬘経』を講じた記録が残されています。

その後、推古天皇17年から23年(609-615年)にかけて、太子は法華経・勝鬘経・維摩経という三つの重要経典の注釈書を執筆しました。これらは後に「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」と総称されるようになりました。法華義疏はそのうち推古天皇22-23年(614-615年)頃に完成したとされています。

恵慈との師弟関係

聖徳太子の仏教理解を語る上で欠かせないのが、高句麗から派遣された僧、恵慈(えじ)の存在です。『日本書紀』によれば、恵慈は推古天皇3年(595年)に来日し、厩戸皇子(聖徳太子)の仏教の師となりました。推古天皇4年(596年)には法興寺(現在の飛鳥寺)が完成し、恵慈は百済から来た僧慧聡(えそう)とともに住し、「三宝の棟梁」と称されました。

法華義疏の制作にあたって、恵慈の教えがどれほど大きな力となったことでしょう。法華経の深遠な教義、中国における解釈の伝統――師から弟子へ、言葉だけでなく、心も伝えられていったに違いありません。太子が推古天皇14年(606年)に行った法華経の講義も、恵慈の指導を受けて準備されたものと考えられます。

そして興味深いことに、恵慈は推古天皇23年(615年)、すなわち法華義疏が完成したとされる年に高句麗へ帰国しています。教えを伝え終えた――そう確信したからこその帰国だったのでしょうか。

恵慈の帰国から7年後の推古天皇30年(622年)2月22日、聖徳太子が薨去しました。遠く離れた高句麗でその訃報を聞いた恵慈は、大いに悲しみ、翌年の太子の命日に自らも入滅すると誓ったといいます。そして推古天皇31年(623年)2月22日、その誓いどおりに入滅したため、時人は恵慈もまた聖なりと評しました。師と弟子の深い絆を伝えるエピソードです。

中国の注釈書と独自の見解

法華義疏の制作にあたって、太子は中国南北朝時代の高僧たちが著した複数の注釈書を参照しました。中でも最も重要な典拠となったのが、梁(りょう)の光宅寺の僧、法雲(467-529年)が著した『法華義記』8巻です。法雲は梁の武帝時代の三大法師の一人として知られ、彼の法華経解釈は当時の仏教界で高く評価されていました。

法華義疏の中では、法雲の『法華義記』を「本義」「本疏」「本釈」と呼んで尊重し、その解釈を基本的な枠組みとして採用しています。しかし単なる引き写しにとどまらず、法雲の解釈に批判を加えたり、独自の見解を述べたりしている箇所も見られるのです。ここに、教えを受け継ぎながらも、自らの頭で考え抜こうとする真摯な姿勢がうかがえます。

この書物は、太子の没後、法隆寺に伝えられました。『法隆寺東院資財帳』(天平宝字5年・761年)によれば、天平勝宝4年(753年)までに行信が発見して法隆寺にもたらしたとされています。その後、明治11年(1878年)に法隆寺から皇室に献納され、現在まで御物として厳重に保管され続けています。

4. 書物としての特徴と技法

草稿本としての特徴

法華義疏は4巻の巻子本(巻物)として、千年以上の時を静かに刻み続けてきました。石田茂作による詳細な調査によれば、各巻の長さは巻一が14.24メートル、巻二が14.52メートル、巻三が15.28メートル、巻四が13.30メートル。合計約57メートルにおよぶ長大な書物です。

法華義疏の最大の特徴は、完成された清書本ではなく、推敲の跡が著しく残る草稿本である点です。本文中には、紙の表面を削って書き直している箇所が随所に見られます。中には削りすぎて穴が開いてしまい、裏から別の紙を当ててそこに書き直している箇所もあるのです。このような修正の痕跡は、著者が慎重に言葉を選び、何度も推敲を重ねた様子を今に伝えています。

改補修正のために小さな紙(貼紙)を貼って訂正している箇所もあり、この貼紙の文字は本文とは異なる筆跡で書かれていることが指摘されています。一つの書物が長い時間をかけて、多くの人々の手を経て伝えられてきた証です。

書風と料紙の特徴

文字は中国六朝から隋にかけての書風の影響を受けた楷書体で記されています。特徴的なのは、この巻物には押界、すなわちヘラで引いた罫線があること。墨と細筆で引いた罫線(墨界)とは異なり、押界は写真には写らないため、実物を見なければわからない特徴です。このような押界を用いた遺品は、職業写経生の作品には見られず、むしろ上層の知識人が書いた作品に見られる特徴だと指摘されています。

料紙は薄茶褐色を呈していますが、巻頭から巻末まで色が変わらないことから、これは褪色したものではなく、本来の紙色であると考えられています。また、虫食いの跡もほとんど見られず、厳重に保管されてきたことがうかがえます。装幀はきわめて簡素で、巻軸は何の装飾もない、ただの木製の棒。また、各巻の料紙は横の長さが一定せず、料紙の張り合わせ方も必ずしも丁寧とは言えないことが指摘されています。これらの特徴は、実用的な草稿本としての性格を示すものです。

巻一の巻頭には別紙が継がれており、そこに「法華義疏第一」という内題があります。その下には本文とは別筆で「此是大委国上宮王私集非海彼本」(これは大委国の上宮王による私集で、海外から渡来したものではない、の意)と書かれています。料紙については、本文は中国製の紙を使用し、貼紙は日本製の紙であるとの見方もあります。これらの事実は、法華義疏が単独の著者による一度の執筆ではなく、長い時間をかけて複数の人物が関与した複雑な成立過程を持つことを示しているのです。

現在、法華義疏は御物として宮内庁が厳重に管理しており、温湿度が管理された環境で保管されています。近年ではデジタル撮影技術の発達により、高精細な画像データが作成され、研究者たちは実物に触れることなく細部まで分析できるようになりました。

5. 鑑賞のポイント

推敲の痕跡を見る

法華義疏は御物として厳重に管理されているため、実物を直接見る機会は極めて限られています。しかし、稀に特別展示が行われることがあり、また現在ではインターネット上で法華義疏の高精細画像を閲覧することも可能です。

法華義疏を鑑賞する際の最大の見どころは、推敲の痕跡でしょう。紙の表面を削って書き直している箇所、削りすぎて穴が開いてしまい裏から別の紙を当てて書き直している箇所――著者が言葉を慎重に選び、何度も推敲を重ねた様子が、1400年の時を超えて生々しく伝わってきます。完成された清書本では決して見ることのできない、思索の過程そのもの。

改補修正のために貼られた小さな紙(貼紙)にも注目してください。これらの貼紙の文字は本文とは異なる筆跡で書かれており、後世に別の人物が加筆・修正を行った証拠と考えられています。一つの書物が長い時間をかけて多くの人々の手を経て伝えられてきたこと――その営みに思いを馳せることができます。本文の行間には、後世の学僧たちによる注釈や訓点も加えられており、法華義疏が単なる歴史的遺物ではなく、実際に読まれ、研究され、活用されてきた生きた書物であることがわかるのです。

草稿本としての性格と保存状態

巻物は複数の紙を継ぎ合わせて作られていますが、その継ぎ方を観察すると、必ずしも丁寧とは言えない箇所があることがわかります。また、各巻の料紙の横幅も一定ではありません。これは実用的な草稿本としての性格を示すもの。一方で、1400年以上経過した現在でも虫食いの跡がほとんど見られず、紙の色も薄茶褐色を保っていることから、いかに厳重に保管されてきたかが実感できます。

巻一の巻頭に別紙で継がれた部分に書かれた「此是大委国上宮王私集非海彼本」という記述にも注目してください。これは「これは大委国(日本)の上宮王(聖徳太子)による私集で、海外から渡来したものではない」という意味で、法華義疏が日本で作られたものであることを明示する重要な証拠です。

鑑賞の際は、できれば事前に法華経の基本的な内容や、聖徳太子の生涯、そして法華義疏が書かれた飛鳥時代の歴史的背景について簡単に予習しておくと、より深い理解と感動が得られることでしょう。(貼紙)にも注目してください。これらの貼紙の文字は本文とは異なる筆跡で書かれており、後世に別の人物が加筆・修正を行った証拠と考えられています。一つの書物が長い時間をかけて多くの人々の手を経て伝えられてきたこと――その営みに思いを馳せることができます。

生きた書物としての痕跡

本文の行間には、後世の学僧たちによる注釈や訓点も加えられており、法華義疏が単なる歴史的遺物ではなく、実際に読まれ、研究され、活用されてきた生きた書物であることがわかるのです。

実用的な草稿本としての性格

巻物は複数の紙を継ぎ合わせて作られていますが、その継ぎ方を観察すると、必ずしも丁寧とは言えない箇所があることがわかります。また、各巻の料紙の横幅も一定ではありません。これは実用的な草稿本としての性格を示すもの。

驚異的な保存状態

一方で、1400年以上経過した現在でも虫食いの跡がほとんど見られず、紙の色も薄茶褐色を保っていることから、いかに厳重に保管されてきたかが実感できます。

日本製であることの証明

巻一の巻頭に別紙で継がれた部分に書かれた「此是大委国上宮王私集非海彼本」という記述にも注目してください。これは「これは大委国(日本)の上宮王(聖徳太子)による私集で、海外から渡来したものではない」という意味で、法華義疏が日本で作られたものであることを明示する重要な証拠です。

鑑賞前の予習

鑑賞の際は、できれば事前に法華経の基本的な内容や、聖徳太子の生涯、そして法華義疏が書かれた飛鳥時代の歴史的背景について簡単に予習しておくと、より深い理解と感動が得られることでしょう。

6. 心に残る物語(特別コラム)

物語1:海を越えた師弟の絆

推古天皇3年(595年)、遥か高句麗から海を渡ってきた僧・恵慈。斑鳩の地で初めて出会った若き厩戸皇子(聖徳太子)の聡明さに、恵慈は深い感動を覚えたといいます。

「この方こそ、仏法を日本に根付かせる天命を持つお方だ」

恵慈は法華経の教義を一字一句丁寧に説き、太子はそのすべてを吸収していきました。師弟の日々は20年に及び、推古天皇14年(606年)、太子が岡本宮で法華経を講じた時、恵慈は涙を流して喜んだと伝えられています。

そして推古天皇23年(615年)、法華義疏が完成した年、恵慈は高句麗への帰国を決意します。別れの日、二人は何を語ったのでしょうか。記録には残されていませんが、恵慈の心には太子への深い敬愛と、教えを伝え終えた満足感があったに違いありません。

7年後、推古天皇30年(622年)2月22日。遠く高句麗で聖徳太子崩御の報を聞いた恵慈は、大いに悲しみました。そして誓ったのです。「来年の太子の命日に、私も入滅しよう」と。

翌年の2月22日、恵慈はその誓いどおりに静かに入滅しました。時人は言いました。「恵慈もまた聖なり」と。師弟の絆は、死を超えて永遠に結ばれたのです。

物語2:推敲が語る祈り

法華義疏の紙面を見つめていると、ふと時が止まる瞬間があります。削られた文字、書き直された一節、貼紙で覆われた修正――この書物は、完成された清書本ではなく、思索の過程そのものです。

ある箇所では、紙の表面を削りすぎて穴が開いてしまっています。それでも著者は諦めず、裏から別の紙を当てて書き直しました。一体どれほど言葉を選び、推敲を重ねたのでしょう。

仏の教えを正確に伝えたい――その一心が、この推敲の痕跡から静かに伝わってきます。千年以上前の人物が、深夜、灯火の下で筆を握り、思い悩んでいる姿が目に浮かぶよう。

「この言葉で正しく伝わるだろうか」「もっと分かりやすい表現はないか」

紙を削る、かすかな音。墨の香り。揺れる灯火――法華義疏は、完璧を求め続けた人間の、祈りにも似た記録なのです。

物語3:千年の眠りから目覚めた瞬間

明治11年(1878年)、法隆寺から皇室へ献納される際、法華義疏は千年以上の眠りから目覚めました。

厳重に保管されてきた厨子が開かれた瞬間、立ち会った人々は息を呑みました。千年以上前の書物とは思えないほど、紙はしなやかで、文字は鮮明だったのです。

虫食いもほとんどなく、薄茶褐色の紙は優雅な色合いを保っていました。これは奇跡的な保存状態でした。法隆寺の僧侶たちが何世代にもわたって、どれほど大切に守り続けてきたか――その想いが伝わってくる瞬間でした。

以来、法華義疏は御物として皇室で秘蔵され、現代に至るまで厳重に守られています。デジタル技術の発達した今日でも、実物を直接見る機会は極めて限られています。

しかし、それゆえに一層、この書物が持つ神聖さと重みが際立つのかもしれません。手から手へ、時代から時代へ――法華義疏は今も、静かに時を刻み続けているのです。

7. デジタル画像での閲覧情報

デジタル画像の公開

法華義疏は御物として厳重に管理されているため、実物を見る機会は極めて限られています。しかし、現在ではインターネット上で高精細な画像を閲覧することが可能です。

宮内庁が管理する法華義疏の高精細デジタル画像が、研究機関や図書館のデータベースで公開されている場合があります。これらのデジタル画像を通じて、推敲の痕跡や貼紙による修正、書風の特徴などを詳しく観察することができるのです。

書としての美しさ

特に注目したいのが、書としての美しさでしょう。中国六朝から隋にかけての書風の影響を受けた楷書体は、整然としながらも流麗で、1400年前の筆跡とは思えないほど鮮明です。一字一字が丁寧に書かれており、草稿本でありながら美意識の高さがうかがえます。

気品ある筆跡

推敲を重ねる草稿でありながら、決して書の美しさを損なうことなく、むしろその中に気品すら漂わせている点に、著者の教養の深さと美的感覚の鋭さが感じられるのです。文字の一画一画に込められた精神性は、見る者の心を静かに打つものがあります。

特別展示の機会

稀に、東京国立博物館などの大規模な文化施設で、聖徳太子や法隆寺に関する特別展が開催される際に、法華義疏が展示されることがあります。直近では、2021年に東京国立博物館で開催された「聖徳太子1400年遠忌記念 特別展『聖徳太子と法隆寺』」で展示されました。このような機会は非常に貴重ですので、今後同様の展覧会が開催される際には、ぜひ足を運んでみることをお勧めします。

※展示・公開情報の最新情報は、各施設の公式サイトでご確認ください。

8. 用語・技法のミニ解説

法華経(ほけきょう)は、正式名称を『妙法蓮華経』といいます。大乗仏教の根本経典の一つで、すべての人々が平等に仏になれるという一乗思想を説く経典です。紀元1世紀頃に成立し、中国を経て日本に伝来しました。聖徳太子の時代には既に日本に伝わっており、全28品(章)からなります。鳩摩羅什(くまらじゅう)による漢訳が最も広く用いられています。

義疏(ぎしょ)とは、仏教経典の注釈書のことです。「義」は意味を、「疏」は詳しく説き明かすことを意味しています。経典の本文を一句一句引用しながら、その意味を詳しく解説する形式をとります。中国南北朝時代から隋・唐にかけて盛んに作られ、日本にも伝来しました。法華義疏は日本で作られた最古の義疏として知られています。

三経義疏(さんぎょうぎしょ)は、聖徳太子が著したとされる『法華義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』の三つの注釈書の総称です。いずれも推古天皇の時代(7世紀初頭)に作られたとされています。三つの経典はいずれも大乗仏教の重要経典で、当時の日本の仏教理解の基礎となりました。このうち法華義疏のみが原本(草稿本)として現存しています。

一乗思想(いちじょうしそう)は、すべての人々が平等に仏になれるという仏教思想です。法華経の中心思想の一つとして知られています。それまでの仏教では、悟りに至る道には声聞・縁覚・菩薩の三つの乗り物(三乗)があるとされていました。しかし法華経ではこれらを統合し、すべての人が仏になれる唯一の道(一乗)があると説いています。法華義疏では「一大乗」「一仏乗」という表現で、この思想が強調されているのです。

押界(おうかい)とは、ヘラなどの硬い道具で紙に押しつけて引いた罫線のことです。墨で引いた罫線(墨界)とは異なり、紙の表面に凹凸をつけるだけなので、写真には写りません。光明皇后筆『楽毅論』など、上層の知識人が書いた作品に見られる特徴です。法華義疏にも押界があることが確認されており、これは職業写経生の作品ではなく、上層の知識人による作品であることを示す根拠の一つとされています。体験的には、斜めから光を当てると、かすかな凹凸の線が浮かび上がってきます。

巻子本(かんすぼん)は、巻物形式の書物です。長い紙を横につなぎ合わせ、一方の端に軸を取り付けて巻き取るようにしたもので、古代から中世にかけての書物の主要な形式の一つでした。法華義疏は4巻の巻子本として現存し、各巻の長さは13メートルから15メートルにおよびます。巻き上げる時の紙の音、手に伝わる重み――それ自体が時の厚みを感じさせてくれます。

御物(ぎょぶつ)とは、皇室の私有財産を指します。法隆寺から明治11年(1878年)に皇室に献納された宝物のうち、一部は戦後に国有財産に移され「法隆寺献納宝物」として東京国立博物館に所蔵されています。しかし法華義疏は御物のまま皇室で秘蔵され続けているのです。

飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史時代区分の一つです。6世紀末から8世紀初頭(593年-710年頃)までを指し、飛鳥(現在の奈良県明日香村周辺)に宮都が置かれたことからこの名があります。聖徳太子が活躍した推古天皇の時代(592-628年)は飛鳥時代前期にあたります。仏教文化が花開き、法隆寺をはじめとする寺院が建立され、仏教美術が発展した時代でした。

9. 参考文献

主要文献

  • 花山信勝 編訳『法華義疏 上』岩波文庫1975年
  • 花山信勝 編訳『法華義疏 下』岩波文庫、1975年
  • 飯島広子『伝聖徳太子筆『法華義疏』の書風と解釈に関する研究』(博士論文、筑波大学、1999年)
  • 東野治之『聖徳太子 ほんとうの姿を求めて』岩波ジュニア新書(2017年)
  • 魚住和晃『日本書道史新論――書の多様性と深みを探る』(ちくま新書、2024年)