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1.概要
猿沢池(さるさわいけ)の水面に映る五重塔の姿。その逆さ姿が静かに揺れるとき、私たちは千三百年の時を超えた祈りの連なりに触れることになります。奈良の中心部、近鉄奈良駅から徒歩わずか五分という都市の喧騒のただなかに、興福寺は今なお荘厳な姿で佇んでいます。
かつて藤原氏の氏寺として絶大な権勢を誇り、南都七大寺の一角を占めたこの寺院は、単なる宗教施設という枠を超えた存在でした。それは政治の中枢であり、学問の殿堂であり、芸術の粋を集めた文化の結晶でもあったのです。幾度となく戦火に見舞われながらも、その都度再建を遂げてきた不屈の精神。そこには、仏教への深い信仰と、日本文化を守り抜こうとする人々の強い意志が刻まれています。
興福寺を訪れる者は、まず国宝館に収められた阿修羅像の神秘的な表情に心を奪われることでしょう。三つの顔と六本の腕を持ちながら、どこか憂いを帯びたその少年のような面差し。そして、境内を彩る五重塔の優美な姿。中金堂の堂々たる佇まい。これらすべてが、奈良時代から脈々と受け継がれてきた日本仏教文化の精髄を今に伝えています。春の桜、夏の新緑、秋の紅葉、冬の静寂。四季折々に表情を変える境内を歩けば、古の人々が感じた祈りの心が、時空を超えて私たちの胸に響いてくるのです。
2.基本情報
正式名称:興福寺(こうふくじ)
山号:なし(山号を称さない平地伽藍)
宗派:法相宗大本山
所在地:奈良県奈良市登大路町48番地
創建年代:和銅3年(710年)平城京遷都に伴い現在地に移転
前身:天智天皇8年(669年)山階寺として創建
建立者:藤原不比等(創建時は藤原鎌足の妻・鏡女王が山階寺を創建)
建築様式:奈良時代の伽藍配置を基本とし、各建造物は和様を主体とする
文化財指定:
- 国宝建造物:五重塔、東金堂、北円堂
- 国宝彫刻:阿修羅像をはじめとする八部衆立像、十大弟子立像、千手観音菩薩立像など多数
- 国宝絵画・工芸品:華原磬、金銅燈籠など
世界遺産登録:平成10年(1998年)「古都奈良の文化財」の構成資産として登録
重要な建造物:
- 中金堂(平成30年再建)
- 五重塔(国宝・室町時代再建)
- 東金堂(国宝・室町時代再建)
- 北円堂(国宝・鎌倉時代再建)
- 南円堂(重要文化財・江戸時代再建)
- 三重塔(重要文化財・鎌倉時代再建)
3.歴史と制作背景
興福寺の歴史は、一つの家族の物語から始まります。時は飛鳥時代、天智天皇8年(669年)のこと。日本の政治を支えた大政治家・藤原鎌足が病に倒れたとき、その妻である鏡女王は、夫の快癒を祈って山階(現在の京都府京都市山科区)に一つの寺院を建立しました。これが興福寺の前身となる山階寺です。しかし、鎌足はその完成を見ることなくこの世を去りました。妻の深い祈りが込められたこの寺は、やがて息子・藤原不比等に引き継がれることになります。
和銅3年(710年)、元明天皇によって平城京への遷都が実行されると、不比等は山階寺を現在の地に移転し、「興福寺」と改称しました。この名称には「福を興す」という願いが込められています。ちょうどその頃、不比等の娘・宮子は文武天皇の夫人となり、さらに別の娘・光明子は後に聖武天皇の皇后となりました。こうして藤原氏と皇室との結びつきが強まるにつれて、興福寺は藤原氏の氏寺としての地位を確立していったのです。
奈良時代から平安時代にかけて、興福寺は目覚ましい発展を遂げました。藤原氏の権勢が頂点に達した摂関時代には、寺域は広大となり、その伽藍は「四大寺、七大堂、南北両円堂」と称されるほどの壮麗さを誇りました。僧侶の数は数千人に及び、興福寺は単なる宗教施設ではなく、一種の宗教都市の様相を呈していたのです。また、法相宗の中心寺院として学問の府でもあり、多くの高僧がここで修学し、仏教思想を深めました。
しかし、興福寺の歴史は決して平坦なものではありませんでした。最も大きな災厄は、治承4年(1180年)、平重衡(たいらのしげひら)率いる平家軍による南都焼討でした。この戦火により、興福寺の伽藍は東大寺とともにほぼ全焼。千年近くかけて築き上げられた文化遺産の多くが一夜にして灰燼に帰したのです。しかし、興福寺の人々は諦めませんでした。鎌倉時代に入ると、藤原氏や朝廷、そして鎌倉幕府の支援を受けて、壮大な復興事業が開始されます。
この再建において中心的な役割を果たしたのが、運慶をはじめとする慶派の仏師たちでした。彼らは、失われた仏像を復元するだけでなく、新たな様式美を追求し、力強く写実的な鎌倉彫刻の名品を数多く生み出しました。北円堂の弥勒如来坐像や無著・世親像(むじゃく・せしんぞう)などは、まさにこの時期の再興を象徴する傑作です。また、建造物についても、五重塔や東金堂などが順次再建され、興福寺は再び南都における仏教の中心地としての威容を取り戻していきました。
中世に入ると、興福寺は大和国の事実上の支配者となりました。興福寺の僧兵は強大な武力を持ち、朝廷に対して強訴を行うこともしばしばでした。「南都北嶺」という言葉が示すように、興福寺(南都)と比叡山延暦寺(北嶺)は、時の権力者さえも恐れる宗教勢力だったのです。しかしこの世俗的な権力が、やがて織田信長による宗教勢力の弾圧を招く一因ともなりました。
近世に入り、江戸時代には徳川幕府の統制下に置かれながらも、興福寺は法相宗(ほっそうしゅう)の本山として命脈を保ち続けました。しかし、明治維新という大きな変革の波は、興福寺に最大の危機をもたらします。明治政府による神仏分離令と廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐の中で、興福寺は春日大社の神宮寺とみなされ、一時は廃寺同然の状態に陥りました。五重塔はわずか25円で売りに出され、薪にされる寸前だったという逸話さえ残っています。
しかし、近代に入り文化財保護の機運が高まると、興福寺の価値が再認識されるようになりました。昭和から平成にかけて、段階的な復興事業が進められ、平成30年(2018年)には約三百年ぶりに中金堂が再建されました。この再建は、古代の工法を可能な限り忠実に再現する試みであり、現代の技術者たちが古の職人の技に学び、敬意を払いながら取り組んだ一大プロジェクトでした。こうして興福寺は、幾多の困難を乗り越え、現代に至るまでその法灯を守り続けているのです。
4.建築的特徴と技法
興福寺の伽藍配置は、奈良時代の典型的な様式を今に伝える貴重な例です。中金堂を中心に、その東に東金堂、南に南円堂、北に北円堂が配され、それぞれが独立した礼拝空間を形成しています。この配置は、中国の伽藍配置を基本としながらも、日本の地形や風土に適応させた独自の工夫が見られます。特に注目すべきは、平地に建てられた伽藍でありながら、地形の微妙な起伏を活かした空間構成です。これにより、それぞれの堂塔が独自の存在感を放ちながらも、全体として調和のとれた景観を生み出しています。
興福寺のシンボルともいえる五重塔は、高さ約50.1メートルを誇り、木造塔としては東寺の五重塔に次ぐ高さを持ちます。この塔が現在の姿となったのは室町時代、応永33年(1426年)のことです。五重塔の構造は、日本の伝統的な木造建築技術の粋を集めたものといえるでしょう。中心に立つ心柱は、地面から最上層まで一本の柱として貫いており、これが塔全体の構造的安定性を支えています。しかし興味深いことに、この心柱は各層の床には固定されておらず、独立して立っています。この構造が地震の揺れを吸収し、千年を超える時を経ても倒壊することなく立ち続ける秘訣なのです。
各層の屋根は、優美な反りを持つ和様の意匠で仕上げられています。軒下に施された組物は複雑で精緻であり、荷重を分散させるという構造的機能と、装飾的美しさを兼ね備えています。また、屋根の四隅には風鐸が吊るされ、風が吹くたびに清らかな音色を響かせます。これは単なる装飾ではなく、音によって邪気を払い、仏の教えを広めるという宗教的意味も持っているのです。
東金堂は、興福寺において薬師如来を本尊とする重要な堂宇です。現在の建物は室町時代、応永22年(1415年)の再建によるもので、国宝に指定されています。正面七間、側面四間の堂々たる規模を持ち、屋根は本瓦葺の入母屋造です。内部空間は外観からは想像できないほど広大で、中央に薬師如来坐像、その両脇に日光・月光菩薩、さらに四天王像が安置され、まさに仏の世界を立体的に表現した空間となっています。東金堂の特徴は、その簡素でありながら力強い構造美にあります。過度な装飾を排し、木材の持つ自然な美しさと、計算し尽くされた比例が生み出す調和。これこそが日本建築の真髄といえるでしょう。
北円堂は、興福寺の堂宇の中でも最も優美な建築として知られています。建立は養老年間(717-724年)、藤原不比等の一周忌に際して元明上皇と元正天皇が建立したとされ、現在の建物は鎌倉時代、承元2年(1208年)の再建です。八角円堂という特殊な平面形式を持ち、各辺に柱を配した均整のとれた姿は、あたかも宝石のような輝きを放っています。屋根は本瓦葺の八角錐で、頂部には宝珠を戴き、天に向かって伸びるような印象を与えます。内部には運慶作の弥勒如来坐像と、無著・世親像が安置されており、鎌倉彫刻の最高峰として仰がれています。
平成30年に落慶した中金堂は、興福寺復興の象徴です。創建当初の規模を踏襲し、正面七間、側面四間という奈良時代の伽藍建築の格式を再現しています。再建にあたっては、古代の工法を可能な限り忠実に再現することが目指されました。たとえば、柱や梁には吉野檜が使用され、伝統的な木組みの技法が駆使されています。現代の建築基準法との調整という困難な課題もありましたが、文化財建築の専門家と宮大工たちの協力により、古代の美意識と現代の安全性を両立させることに成功しました。金堂内部に入れば、格天井の荘厳な雰囲気と、中央に鎮座する釈迦如来像の神々しい姿に、訪れる者は古の時代にタイムスリップしたような感覚を覚えるに違いありません。
5.鑑賞のポイント
興福寺を訪れるなら、ぜひ早朝の時間帯をおすすめします。午前八時頃、朝日が東から射し込み始める頃、境内は清澄な空気に包まれています。この時間帯、猿沢池のほとりに立てば、水面に映る五重塔の姿が最も美しく見えます。朝霧が残る日であれば、塔はまるで天上から降りてきたかのような幻想的な姿を見せてくれるでしょう。また、早朝は参拝者も少なく、静寂の中で心ゆくまで建築美を味わうことができます。
五重塔を鑑賞する際は、さまざまな角度から眺めることをおすすめします。正面から見上げる姿も荘厳ですが、斜めから見たときの各層が織りなす律動的なリズム、遠くから見たときの全体のシルエットなど、見る角度によって全く異なる表情を見せてくれます。特に、猿沢池越しに見る五重塔は、水面に映る逆さ塔とあわせて、絵画のような美しさです。写真撮影を楽しむ方は、池の北西側から南東方向に向かって撮影すると、美しい構図が得られるでしょう。
東金堂を訪れた際は、ぜひ堂内に入り、薬師如来坐像をじっくりと拝観してください。中央の薬師如来を中心に、左右の日光・月光菩薩、そして四天王が配された空間構成は、仏教における理想世界を立体曼荼羅として表現したものです。特に、四天王の躍動的な姿勢と、足下で踏みつけられる邪鬼の表情には、ユーモアさえ感じさせる人間味があります。また、堂内の薄暗い照明の中で見る仏像は、金箔や彩色がほのかに輝き、神秘的な雰囲気を醸し出しています。
北円堂は通常、特別公開時のみ内部を拝観できます。春と秋の年二回、それぞれ数週間にわたって開扉されますので、訪問時期を合わせることをおすすめします。内部の弥勒如来坐像は、運慶の最高傑作の一つとされており、その穏やかでありながら威厳に満ちた表情は、見る者の心を深く打ちます。また、無著・世親像の写実的な表現は、まるで生きた人物がそこに立っているかのような錯覚を覚えるほどです。彫刻の細部、たとえば衣の襞の表現や、手指の繊細な動きにも注目してください。
国宝館では、阿修羅像をはじめとする数々の名品を鑑賞できます。阿修羅像の前に立つと、その三面六臂(さんめんろっぴ)の姿に圧倒されながらも、どこか憂いを帯びた少年のような表情に心を奪われます。この像は乾漆造(かんしつぞう)という技法で作られており、驚くほど軽量です。そのため、光の当たり方によって表情が微妙に変化して見えるのも魅力の一つ。また、八部衆(はちぶしゅう)や十大弟子の像も、それぞれが個性的な表情と姿勢を持っており、一体一体をゆっくりと鑑賞する価値があります。
四季それぞれの興福寺も格別です。春には境内の桜が咲き誇り、五重塔を桜色に染める景観は多くの写真家を魅了します。夏の新緑は鮮やかな緑が建築物の朱色と対比をなし、生命力に満ちた雰囲気を醸し出します。秋の紅葉の季節には、イチョウやモミジが境内を彩り、古建築との調和が絶妙な美しさを生み出します。そして冬、雪化粧した五重塔の姿は、まさに水墨画のような趣があります。夕暮れ時、西日に照らされた堂塔が黄金色に輝く瞬間も見逃せません。
6.この文化財にまつわる物語(特別コラム)
阿修羅像に込められた光明皇后の祈り
興福寺国宝館で私たちを迎える阿修羅像。その憂いを帯びた少年のような表情の背景には、歴史的に記録された事実があります。この像は天平6年(734年)、聖武天皇の皇后・光明皇后が、亡き母・橘三千代の追善供養のために造立させた釈迦三尊像と八部衆像、十大弟子像の一体として制作されました。
光明皇后は、藤原不比等の娘として生まれ、史上初めて皇族以外から皇后の地位に就いた女性です。母・橘三千代は、娘を皇后にするという前例のない目標のために、政治的手腕を発揮した人物として知られています。三千代が天平5年に逝去したとき、光明皇后は深い悲しみの中で、母の冥福を祈るための仏像造立を発願しました。
阿修羅は本来、インド神話における戦闘の神であり、仏教美術では通常、憤怒の形相で表現されます。しかし興福寺の阿修羅像は、従来の図像とは全く異なる表現がなされました。三つの顔と六本の腕を持ちながら、正面の顔は深く思索するような、あるいは何かを悟ったような穏やかな表情を湛えています。これは、戦いを放棄し仏法に帰依した阿修羅の姿を表現したものと考えられています。
乾漆造という技法で制作されたこの像は、高さ約153センチメートルでありながら非常に軽量で、細部まで繊細な表現が可能でした。制作に関わった工人たちの名前は記録に残っていませんが、当時の最高の技術を結集して造られたことは間違いありません。完成した阿修羅像は、単なる宗教彫刻を超えて、一人の母を失った娘の悲しみと祈りを、普遍的な美として昇華させた傑作となりました。
平重衡の南都焼討と興福寺の再興
治承4年(1180年)12月28日、興福寺にとって最大の災厄が訪れました。平清盛の五男・平重衡が率いる平家軍による南都焼討です。この時、興福寺と東大寺の伽藍はほぼ全焼し、多くの僧侶や民衆が犠牲となりました。『平家物語』には、この惨状が詳しく記されています。
この攻撃の背景には、平家と南都寺社勢力との政治的対立がありました。興福寺は大和国における強大な権力を持ち、平家の政策に反対する立場をとっていたのです。焼討により、奈良時代以来蓄積されてきた文化遺産の多くが失われました。しかし、興福寺の人々はすぐに再建に着手します。
鎌倉時代に入ると、朝廷や鎌倉幕府、そして藤原氏の支援を受けて、本格的な復興事業が始まりました。この再興において中心的な役割を果たしたのが、運慶をはじめとする慶派の仏師たちです。運慶の父・康慶も興福寺の再興に尽力し、東金堂の本尊である薬師三尊像などを制作しました。
運慶は建暦2年(1212年)頃に、北円堂の本尊である弥勒如来坐像と、法相宗の祖師である無著・世親の兄弟像を完成させました。特に無著・世親像は、実在の人物を写実的に表現するという画期的な試みであり、鎌倉彫刻の最高傑作として今日まで高く評価されています。これらの像は現在も北円堂に安置され、年二回の特別公開時に拝観することができます。
五重塔や東金堂なども順次再建され、興福寺は再び南都仏教の中心地としての威容を取り戻していきました。焼討から約50年という比較的短期間での復興は、興福寺の社会的影響力の大きさと、人々の強い信仰心を物語っています。
明治維新の試練と文化財保護の夜明け
明治元年(1868年)に発せられた神仏分離令は、興福寺に存亡の危機をもたらしました。神道と仏教を分離するという政策は、各地で廃仏毀釈運動を引き起こし、多くの寺院が破壊されました。興福寺は春日大社と密接な関係にあったため、神宮寺とみなされ、一時は廃寺同然の状態に陥りました。
明治4年(1871年)頃には、多くの僧侶が還俗を強いられ、寺宝は散逸し、建造物は荒廃していきました。五重塔が売りに出されたという話は、この時期の興福寺の窮状を示す逸話として語り継がれています。実際、この時期に多くの仏像や什物が流出し、現在、ボストン美術館やメトロポリタン美術館などに興福寺旧蔵の仏像が収蔵されているのは、この時代の名残です。
しかし、明治中期以降、日本の文化財保護に対する認識が変化していきます。明治30年(1897年)に古社寺保存法が制定されると、興福寺の建造物や仏像も国の保護を受けるようになりました。五重塔は明治30年に、阿修羅像を含む八部衆立像は明治33年(1900年)に、それぞれ国宝(当時の名称は「特別保護建造物」「国宝」)に指定されました。
大正時代から昭和初期にかけて、徐々に復興の機運が高まり、昭和33年(1958年)には国宝館が開館し、貴重な仏像群を適切な環境で保存・公開できるようになりました。平成10年(1998年)には「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録され、国際的にもその価値が認められました。
そして平成30年(2018年)、約三百年ぶりに中金堂が再建されました。この再建事業には、古代の工法を可能な限り忠実に再現するという方針が貫かれ、宮大工や研究者たちの長年にわたる努力の結晶となりました。明治維新の試練を乗り越え、現代に至るまで法灯を守り続けてきた興福寺の歴史は、日本の文化財保護の歩みそのものといえるでしょう。
7.現地情報と観賞ガイド
所在地
〒630-8213 奈良県奈良市登大路町48番地
拝観時間
- 国宝館・東金堂:9:00〜17:00(受付は16:45まで)
- 中金堂:9:00〜17:00(受付は16:45まで)
- 北円堂:特別公開時のみ(年2回、春季と秋季)
- 境内自由散策エリア:随時
拝観料
- 国宝館:大人700円、中高生600円、小学生300円
- 東金堂:大人300円、中高生200円、小学生100円
- 中金堂:大人500円、中高生300円、小学生100円
- 共通券(国宝館・東金堂・中金堂):大人1,000円、中高生800円、小学生350円 ※料金は変更される場合がありますので、訪問前に公式サイトでご確認ください
アクセス方法
- 電車:近鉄奈良駅から徒歩約5分、JR奈良駅から徒歩約15分
- バス:JR奈良駅から市内循環バス「県庁前」下車すぐ
- 車:第二阪奈道路・宝来ICから約15分
- 駐車場:興福寺専用の駐車場はありません。奈良県営登大路駐車場(有料)などの周辺駐車場をご利用ください
所要時間の目安
- 国宝館をじっくり鑑賞:1時間〜1時間30分
- 東金堂・中金堂拝観:各30分程度
- 境内散策:30分〜1時間
- 合計:2時間30分〜3時間程度 ※北円堂特別公開期間中はさらに30分程度追加
おすすめの見学ルート
- 近鉄奈良駅から徒歩で興福寺へ向かい、まず五重塔を外観から鑑賞
- 東金堂を拝観し、薬師三尊像と四天王像を拝観
- 中金堂を拝観し、釈迦如来像と再建された堂内の荘厳さを体感
- 国宝館で阿修羅像をはじめとする仏像群をじっくり鑑賞
- 南円堂の外観を見学(通常は外観のみ)
- 猿沢池まで足を延ばし、池越しの五重塔を撮影
- 北円堂の外観を鑑賞(特別公開時は内部拝観)
周辺のおすすめスポット
- 猿沢池:徒歩3分。五重塔が水面に映る絶景ポイント
- 奈良国立博物館:徒歩5分。興福寺の寺宝も多数収蔵
- 春日大社:徒歩15分。世界遺産の名社
- 東大寺:徒歩15分。大仏殿で知られる南都の名刹
- 奈良公園:隣接。鹿と触れ合いながら散策を楽しめる
- ならまち:徒歩10分。古い町並みが残る情緒ある地域
特別拝観情報
- 北円堂特別開扉:例年、春季(4月下旬〜5月上旬)と秋季(10月下旬〜11月上旬)に約3週間ずつ開扉。運慶作の国宝仏像群を間近で拝観できる貴重な機会です。
- 追儺会(ついなえ)(鬼追い式):毎年2月3日の節分に行われる伝統行事。鬼を追い払う勇壮な儀式を見学できます。
- 薪御能(たきぎおのう):毎年5月第3金・土曜日に南大門跡などで開催される能楽の奉納。幽玄な雰囲気の中で伝統芸能を堪能できます。
便利な情報
- 国宝館内は撮影禁止ですが、境内の建造物外観は撮影可能です
- 境内はバリアフリー対応が進んでおり、車椅子での参拝も可能です(一部段差あり)
- 英語・中国語・韓国語のパンフレットが用意されています
- 音声ガイド(日本語・英語)のレンタルあり(有料)
8.マナー・心構えのセクション
興福寺は、千三百年以上の歴史を持つ生きた宗教施設です。現在も法相宗の大本山として、日々の勤行が営まれています。訪問の際には、観光地としてだけでなく、信仰の場であることを心に留めていただければ幸いです。
基本的な参拝マナー
堂内に入る前には、軽く一礼することが望ましいでしょう。これは仏様への敬意を表すとともに、自分の心を整える意味も持ちます。堂内では、大きな声での会話は控え、静かな雰囲気を保つよう心がけてください。特に国宝館では、他の参拝者の鑑賞の妨げにならないよう配慮が必要です。
仏像を拝観する際は、じっくりと時間をかけて向き合うことをおすすめします。スマートフォンでの撮影に夢中になるあまり、実際の仏像をほとんど見ずに通り過ぎてしまうのは、もったいないことです。まずは自分の目でしっかりと見て、心に刻み、その後で必要であれば許可された場所で撮影を楽しむというのが、より豊かな体験につながるでしょう。
写真撮影について
境内の建造物外観は基本的に撮影可能ですが、国宝館や各お堂の内部は撮影禁止です。これは、フラッシュなどによる文化財の劣化を防ぐためであり、また宗教的な理由もあります。ルールを守って、目と心で美しさを味わってください。
服装について
特に厳格な服装規定はありませんが、宗教施設であることを考慮した服装が望ましいでしょう。過度に肌を露出した服装は避けるのがマナーです。また、堂内は靴を脱いで上がる場所もありますので、脱ぎ履きしやすい履物が便利です。
奈良の鹿との接し方
興福寺周辺には、奈良公園の鹿が多く生息しています。鹿は神の使いとして大切にされていますが、野生動物であることを忘れずに。餌付けは指定の「鹿せんべい」のみとし、人間の食べ物は与えないでください。また、鹿を無理に触ろうとしたり、追いかけたりすることは避けましょう。特に発情期や子育て期の鹿は気が荒くなることがありますので、適度な距離を保って接してください。
心構え
興福寺を訪れることは、単に観光地を巡るということ以上の意味を持ちえます。ここは、千年以上にわたって、人々が祈りを捧げ、学問を深め、芸術を創造してきた場所です。その歴史の重みを感じながら、ゆったりとした時間を過ごしていただければと思います。急ぎ足で見て回るのではなく、一つ一つの建造物、一体一体の仏像と、静かに向き合う時間を持つこと。それが、興福寺の本当の魅力を味わう秘訣といえるでしょう。
9.関連リンク・参考情報
公式サイト
興福寺公式ウェブサイト:https://www.kohfukuji.com/
拝観時間、料金、特別公開情報などの最新情報が掲載されています。
文化庁関連
文化遺産オンライン(興福寺):https://bunka.nii.ac.jp/
興福寺の国宝・重要文化財の詳細情報を検索できます。
世界遺産関連
古都奈良の文化財(UNESCO):https://whc.unesco.org/
世界遺産としての興福寺の価値について、国際的な評価を確認できます。
奈良県・奈良市観光情報
奈良県観光公式サイト:https://yamatoji.nara-kankou.or.jp/
奈良市観光協会:https://narashikanko.or.jp/
興福寺周辺の観光情報、イベント情報、アクセス情報などが充実しています。
関連する文化財
- 東大寺(世界遺産、奈良市):南都における興福寺の兄弟寺
- 薬師寺(世界遺産、奈良市):法相宗の大本山
- 唐招提寺(世界遺産、奈良市):奈良時代の建築様式を伝える名刹
- 法隆寺(世界遺産、斑鳩町):世界最古の木造建築群
参考文献
- 『興福寺』(日本の古寺美術シリーズ)保育社
- 『国宝阿修羅』小学館
- 『運慶への招待』朝日新聞出版
- 『興福寺の歴史と文化』法蔵館
画像出典
・奈良市ホームページ
10.用語・技法のミニ解説
法相宗(ほっそうしゅう)
法相宗は、日本仏教の宗派の一つで、「唯識思想」を根本とする教えです。この思想は、私たちが見ている世界は、実は心が作り出したものであり、心のあり方を変えることで真理に到達できると説きます。中国の玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典をもとに確立され、日本には奈良時代に伝わりました。興福寺と薬師寺が法相宗の二大本山とされています。難解な哲学的教義で知られますが、その根底には「すべての人に仏になる可能性がある」という希望に満ちたメッセージがあります。奈良時代には、南都六宗(なんとろくしゅう)の一つとして学問的研究が盛んに行われ、日本の仏教思想の発展に大きく貢献しました。
乾漆造(かんしつづくり)
奈良時代に盛んに用いられた仏像制作技法の一つです。まず粘土で原型を作り、その上に布を漆で何層にも貼り重ねていきます。漆が固まったら中の粘土を取り出し、内部を空洞にします。最後に表面を整え、彩色を施して完成させます。この技法の最大の特徴は、完成した像が非常に軽いことです。興福寺の阿修羅像もこの技法で作られており、高さ約153センチメートルありながら、重さはわずか15キログラム程度といわれています。また、細かい表情や衣の襞なども精密に表現できるため、写実的な表現に適していました。ただし、制作に高度な技術と長い時間を要するため、平安時代以降は次第に用いられなくなっていきました。
氏寺(うじでら)
古代日本において、有力な氏族が一族の繁栄や先祖の冥福を祈るために建立した寺院のことです。興福寺は藤原氏の氏寺として、特別な地位を占めていました。氏寺は単なる信仰の場ではなく、一族の政治的権威を示すシンボルでもありました。そのため、氏族の権力が強大になるにつれて、氏寺も大規模化し、多くの荘園を持つようになりました。興福寺の場合、藤原氏が摂関政治の中心として権勢を誇った時代には、寺域も広大となり、「四大寺、七大堂」と称されるほどの規模を持つに至りました。また、興福寺は大和国(現在の奈良県)の事実上の支配者として、世俗的な権力も持つようになりました。このように、氏寺という制度は、古代日本における宗教と政治の密接な関係を示す重要な例といえます。
組物(くみもの)
日本建築において、柱の上に置かれる複雑な木材の組み合わせのことで、「斗栱(ときょう)」とも呼ばれます。五重塔や東金堂の軒下を見上げると、幾何学的な木材の組み合わせが見えますが、これが組物です。組物は単なる装飾ではなく、屋根の重みを柱に効率よく伝える重要な構造的役割を果たしています。水平材(肘木)と垂直材(斗)を複雑に組み合わせることで、屋根の荷重を分散させ、建物全体の安定性を高めているのです。また、組物の複雑さは建物の格式を示す指標でもありました。より複雑で重層的な組物は、より格式の高い建物に用いられました。興福寺の五重塔の組物は、和様建築の組物として典型的なもので、各層ごとに微妙に異なる意匠が施されており、見る者を飽きさせません。
八部衆(はちぶしゅう)
仏法を守護する八種類の神々のことで、もともとはインドの古代神話に登場する神々が、仏教に取り入れられたものです。八部衆とは、天(てん)、龍(りゅう)、夜叉(やしゃ)、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、摩睺羅伽(まごらが)を指します。興福寺国宝館に安置されている八部衆立像は、天平6年(734年)の作で、現存する八部衆像の中で最も古く、最も優れた作品として知られています。特に阿修羅像は、その神秘的な表情で多くの人々を魅了してきました。本来、阿修羅は戦闘的な神として恐ろしい姿で表現されることが多いのですが、興福寺の阿修羅像は、まるで少年のような純真な表情をしており、仏教に帰依した後の穏やかな姿を表現していると考えられています。八部衆像はいずれも乾漆造で制作されており、奈良時代の造形美術の最高傑作の一つといえるでしょう。
最後に
興福寺は、千三百年の時を超えて、今もなお私たちに多くのことを語りかけてくれます。それは、仏教への深い信仰であり、美を追求する人間の情熱であり、困難を乗り越えて文化を守り抜こうとする不屈の精神です。ぜひ実際に足を運んで、その歴史の重みと美しさを、ご自身の目と心で感じ取っていただければと思います。興福寺での体験が、皆様の心に深く刻まれ、日本文化への理解と愛情を深めるきっかけとなることを願ってやみません。