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東大寺大仏殿 – 世界最大級の木造建造物

by MJ編集部

1. 概要

奈良県奈良市に位置する東大寺大仏殿は、奈良時代から続く日本を代表する仏教建築です。正面の幅57.5メートル、奥行き50.5メートル、棟までの高さ49.1メートルという壮大な規模を誇り、世界最大級の木造建造物として今なお人々の心を揺さぶり続けています。

この荘厳な大仏殿は、1181年と1567年の戦火で2度にわたり焼失するという悲劇に見舞われました。しかしながら、そのたびに人々の献身的な尽力により見事に再建され、現在の建物は1709年に落慶したものです。国宝に指定されており、さらに1998年12月には「古都奈良の文化財」の構成資産として、ユネスコ世界文化遺産にも登録されました。

堂内には盧舎那仏坐像(奈良の大仏)が静かに安置されており、その慈悲深く穏やかな御顔は、今も変わらず多くの参拝者を温かく迎え続けています。なお、奥行きと高さは創建当時とほぼ同じですが、幅は創建当初(約86メートル)の約3分の2になっています。それでもなお、その圧倒的な威容は訪れる人々に深い感銘を与えてやみません。

2. 基本情報

正式名称
東大寺金堂(とうだいじこんどう)
通称:東大寺大仏殿(とうだいじだいぶつでん)

所在地
〒630-8587 奈良県奈良市雑司町406-1

建立・制作時代

  • 初代:奈良時代(天平勝宝4年・752年頃完成)
  • 二代目:鎌倉時代(建久6年・1195年再建)
  • 三代目(現存):江戸時代(宝永6年・1709年落慶)

建立者

  • 初代:聖武天皇の発願により建立
  • 三代目:公慶上人の勧進により再建

建築様式・種別

  • 木造建築
  • 寄棟造、本瓦葺

文化財指定状況
国宝(建造物)

世界遺産登録
1998年12月、「古都奈良の文化財」の構成資産として、ユネスコ世界文化遺産に登録

規模

  • 正面の幅:約57.5メートル
  • 奥行き:約50.5メートル
  • 棟までの高さ:約49.1メートル
  • 創建当初の幅は約86メートルあり、現在は約3分の2に縮小

3. 歴史と制作背景

天平の世に生まれた大仏殿

東大寺が建立されるきっかけとなったのは、聖武天皇の時代に相次いだ社会的な不安でした。天皇が即位してから、地震や日食が続き、さらには神亀5年(728年)には皇太子が薨去されるという悲しい出来事がありました。加えて、天平元年(729年)には長屋王の変と再び皇太子の死、天平9年(737年)には天然痘が大流行し、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こるなど、まさに災難が度重なったのです。

このような混乱の中、聖武天皇は天平15年(743年)に盧舎那仏造像の発願をされました。仏教の力によって国家を安定させようという、強い願いと深い祈りがそこにはありました。そして、実際の造像は天平17年(745年)から準備が開始され、ついに天平勝宝4年(752年)に開眼供養会が盛大に執り行われたのです。

興味深いことに、大仏は当初、奈良ではなく、紫香楽宮の近くの甲賀寺(今の滋賀県甲賀市)に造られる計画でした。しかしながら、紫香楽宮の周辺で山火事が相次ぐなど不穏な出来事があったために造立計画は中止され、都が平城京へ戻るとともに、現在、東大寺大仏殿がある位置での造立が開始されました。

天平勝宝4年の開眼供養会には、聖武太上天皇(天平勝宝元年に譲位していた)、光明皇太后、孝謙天皇をはじめとする要人が列席し、参列者は実に1万数千人に及んだといいます。また、開眼導師はインド出身の僧・菩提僊那が担当しました。この儀式の荘厳さは、当時の人々にとって、まさに仏の世界が現実に現れた奇跡の瞬間だったことでしょう。

聖武天皇は大仏造立のためには「国銅を尽して象を鎔(とか)し、大山を削りて以て堂を構へ」、つまり、国じゅうの銅を溶かして大仏を造り、山を削って大仏殿を造ると述べておられます。実際に大仏の原型制作と鋳造のためには大量の土を必要とし、東大寺大仏殿は実際に山の尾根を削って造成されたものであることが、庭園研究家の森蘊による東大寺境内の地形調査で判明しています。

二度の焼失と復興の歴史

平安時代の末、保元・平治の乱の後、平氏は大和国を勢力下におきました。やがて平氏政権と東大寺をはじめとする南都の寺院勢力が激しく対立した結果、治承4年(1181年)に平清盛の命を受けた平重衡らが、南都を焼きはらったのです。この悲劇的な火災により、東大寺は二月堂・法華堂(三月堂)・転害門・正倉院以外の主要な伽藍を失ってしまいました。

しかしながら、鎌倉時代には重源上人の献身的な尽力により、大仏殿が見事に再建されました。重源上人は中国から新しい建築技術である大仏様(天竺様)を導入し、力強く合理的な構造を持つ建築を実現したのです。

そして、二度目の焼失は永禄10年(1567年)11月10日(旧暦10月10日)から11月11日(旧暦10月11日)にかけて、東大寺大仏殿の戦いの最中のことでした。これは三好義継と松永久秀が対立したことから始まった戦いで、「三好・松永の乱」と呼ばれています。この戦火により、大仏殿や講堂をはじめ多くの建造物が焼失し、大仏も大きく損傷してしまいました。

その後、仮の仏堂が建設されましたが、慶長15年(1610年)に暴風で倒壊してしまいます。豊臣秀吉は奈良の大仏に代わる、新たな大仏として京都に方広寺大仏(京の大仏)を造営しましたが、残念ながら東大寺大仏の再建工事への着手は行われませんでした。このため、大仏は長い間、風雨にさらされる痛ましい状態に置かれていたのです。

公慶上人の生涯を賭けた復興

江戸時代に入り、東大寺復興に生涯を捧げたのが公慶上人(1648年~1705年)です。公慶は三論宗の僧侶で、万治3年(1660年)、東大寺大喜院に入寺しました。そして入寺後わずか6日後の12月15日、大雨の中で大仏を見た公慶は、その場で大仏殿再建を固く決意したと伝えられています。

貞享元年(1684年)、江戸幕府の許可を得て、公慶は「一紙半銭」を標語に全国で勧進を展開しました。これは、一枚の紙、半分の銭のように取るに足らないものであってもいいから寄付をしてほしいという意味です。わずかなものでも大仏復興に力を貸してほしい、それが仏との御縁を結ぶことになるのだと、公慶は人々に懇切丁寧に説いて回りました。そして7年後には実に1万1千両にまで達したのです。これは現在の貨幣価値に換算するとおよそ10億円にも及びます。

元禄5年(1692年)に大仏の修理が完成して開眼法要が挙行されました。この功績を認められて翌・元禄6年(1693年)には、護持院隆光の仲立ちにより、5代将軍・徳川綱吉と桂昌院に紹介され、徳川綱吉に拝謁。その助力もあり、ついに大仏殿の建立に取り掛かることができました。

しかしながら、公慶上人は大仏殿の落慶を見ることなく、宝永2年(1705年)に江戸で病死しました。遺骸は奈良へ運ばれ、東大寺の北にあり、東大寺復興の先人重源が建てた五劫院に埋葬されました。大仏殿の落慶が成ったのは宝永6年(1709年)、公慶が没してのち4年目のことです。現在の東大寺に見られる大仏殿はこのときのものです。なお、大仏殿の落慶法要後には中門・廻廊・東西楽門も再建されました。

4. 建築的特徴と技法

世界最大級の木造建造物

現存する大仏殿は、正面の幅約57.5メートル、奥行き約50.5メートル、棟までの高さ約49.1メートルという壮大な規模を持っています。奥行きと高さは創建当時とほぼ同じですが、幅は創建当初の約86メートルから約3分の2に縮小されています。それでもなお、世界最大級の木造建造物としての圧倒的な威容は、訪れる者の心を深く打つのです。

興味深いことに、東大寺にはかつて、東塔と西塔という七重塔が並び建っていました。その高さは実に100メートル近くあったとも言われます。現在の大仏殿の高さは46.1メートルですから、そのほぼ2倍の塔が2基建っていたことになります。失われた古の伽藍の壮大さを想像すると、奈良時代の技術力の高さには驚嘆せずにはいられません。

方広寺大仏殿からの技術継承

三代目東大寺大仏殿は従前の大仏殿とは外観が大きく異なる点が多く、堂外から大仏の御顔を拝顔できるようにする観相窓の採用、観相窓上部の唐破風の設置などが特徴的です。同時代に存在していた方広寺2代目大仏殿の設計図と現存する三代目東大寺大仏殿を見比べると、間口が減じられていること以外はほぼ建物の外観が瓜二つであることが分かります。

これは、2代目大仏殿の焼失から百数十年が経過し、その技法に倣うことは難しかったものの、同時代には方広寺2代目大仏殿が京都に存在していたため、公慶など東大寺大仏殿再建に当たった者たちが、それの意匠・技法を参考にしたためではないかと考えられています。このような技術の継承は、日本の建築史における貴重な連続性を示すものと言えるでしょう。

寄木材技法という革新

三代目東大寺大仏殿の柱材は、寄木材(鉄輪で固定した集成材)となっており、この技法は2代目方広寺大仏殿で確立されたものとされ、東大寺大仏殿にも取り入れられました。というのも、豊臣秀吉による方広寺初代大仏殿造営時に、日本各地の柱材に適した巨木を伐採しつくしたため、森林資源が枯渇していたのです。苦肉の策から生まれた技法でしたが、これが後世の大型木造建築に新たな可能性をもたらしました。

とはいえ、大仏殿の上棟に必要な虹梁と呼ばれる2本の大梁には、どうしても集成材ではない無垢材、それも長さ13間のものをそれぞれ用意する必要がありました。日本中を探し回った末の宝永元年(1704年)、ついに日向国白鳥山で2本のアカマツの巨木を発見し、のべ10万人の人員を導入して奈良まで運搬。そしてめでたく宝永2年、上棟式を迎えることができたのです。

堂内に広がる荘厳な空間

大仏殿内部には、中央に盧舎那仏坐像が厳かに鎮座し、左右には虚空蔵菩薩と如意輪観音が脇侍として静かに安置されています。さらに広目天と多聞天の巨像が、堂内を守護するように凛々しく立っています。堂内に足を踏み入れた参拝者は、その静謐な空気と大仏の圧倒的な存在感に、思わず息を呑むことでしょう。

また、大仏殿正面には金銅八角燈籠が置かれており、これは国宝に指定されています。銅燈籠では我が国最大最古のもので、笙、横笛、銅跋子、尺八を奏する音声菩薩が美しく浮き彫りされています。天平時代の優れた工芸技術を今に伝える貴重な遺品です。

5. 鑑賞のポイント

訪れるべき時間と季節

東大寺大仏殿は年間を通じて多くの参拝者が訪れますが、早朝の開門直後は比較的混雑が少なく、ゆっくりと心静かに参拝できる時間帯です。静寂に包まれた境内で、大仏殿の姿をじっくりと眺めることができるでしょう。

また、四季折々に異なる表情を見せる境内の自然と、大仏殿の調和も見どころの一つです。春には桜が境内を華やかに彩り、夏には深い緑に包まれて涼やかな趣を見せ、秋には紅葉が大仏殿を美しく取り囲み、冬には雪化粧した姿が水墨画のような静謐な美しさを見せます。それぞれの季節に訪れることで、大仏殿の新たな魅力を発見できるはずです。

建築美を味わう視点

南大門から大仏殿を望む位置に立つと、参道の正面に堂々と構える大仏殿の全景を眺めることができます。この位置からの眺めは、最も印象的な景観の一つと言えるでしょう。

観相窓は、堂外から大仏様の御顔を拝顔できるように設けられた工夫です。通常は閉じられていますが、毎年大晦日と万燈供養会の際に扉が開かれ、中門から大仏様の慈悲深い御顔を拝むことができます。この特別な機会に訪れることができれば、心に残る貴重な体験となることでしょう。

堂内では、大仏様を様々な角度から眺めることをお勧めします。正面、左右の脇、そして背中側から見る姿は、それぞれに異なる印象を与えます。時間をかけてゆっくりと堂内を巡り、大仏様の姿を心に深く刻んでください。

柱の穴くぐりの体験

大仏殿の北東の柱には、大仏様の鼻の穴と同じ大きさという穴が開いており、この穴をくぐり抜けると無病息災のご利益があるとされています。特に子供たちに人気の体験で、多くの参拝者が挑戦する姿が見られます。なお、大人でも挑戦することができますが、体格によっては難しい場合もあります。

二月堂からの展望

大仏殿を訪れた際には、ぜひ少し足を延ばして二月堂へも登ってみてください。二月堂の舞台から見る夕日の眺めはすばらしく、正面には信貴生駒の連山を望むことができます。そして振り返れば、大仏殿の偉容を高台から見下ろすことができ、奈良盆地に広がる古都の景観を一望できるのです。この眺望は、訪れた人々の心に深く残る、まさに感動的な光景となるでしょう。

6. この文化財にまつわる物語(特別コラム)

東大寺大仏殿には、長い歴史の中で様々な伝説や逸話が残されています。これらの物語は、史実と伝承が織りなす、東大寺の豊かな精神世界を今に伝えています。

良弁僧正と鷲の伝説

東大寺の開山となった良弁僧正には、不思議な誕生伝説が伝わっています。

別伝によれば、良弁は若狭国小浜下根来生まれで、母親が野良仕事の最中、目を離した隙に鷲にさらわれて、奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを義淵に助けられ、僧として育てられたと言われます。赤子を連れ去った大鷲は、春日の地まで飛び、そこで力尽きて杉の木に引っかかったのだそうです。たまたま通りかかった高僧・義淵が赤子の泣き声を聞きつけ、杉の木を見上げると、そこには布に包まれた赤ん坊がいました。義淵はこれも仏縁と考え、その子を引き取り、良弁と名付けて我が子のように大切に育てたのです。

東大寺の前身に当たる金鐘寺に住んだ良弁は、後に全国を探し歩いた母と30年後、奇跡的に再会したとの伝承もあります。この伝説をそのまま劇化した浄瑠璃が「二月堂良弁杉の由来」(1887年2月彦六座)で、明治期の新作浄瑠璃の佳作として評価を得、のちに歌舞伎へも移入されました。

のちに母の刻んだ観世音菩薩像を身に着けていた縁で、母子は再会し、良弁は孝行したと伝わります。現在も二月堂の前には良弁杉と呼ばれる杉の木が立っています。この伝説は、親子の絆の強さと、仏縁の不思議さを今に伝える物語として、多くの人々に語り継がれているのです。

公慶上人の決意

万治3年(1660年)、東大寺大喜院に入寺した公慶は、その6日後の12月15日、大雨の中で大仏を見て、大仏殿再建を固く決意したと伝えられています。当時、大仏は屋根もない雨ざらしの状態で、仮の木製銅板貼りの頭部を付けた痛ましい姿でした。

「一紙半銭」という標語には、公慶上人の深い思いやりと温かい心が込められていました。これは、一枚の紙、半分の銭のように取るに足らないものであってもいいから寄付をしてほしいという意味です。日々の暮らしにもこと欠く庶民たちに、わずかなものでも大仏復興に力を貸してほしい、それが仏との御縁を結ぶことになるのだと、公慶は人々に懇切丁寧に説いて回ったのです。

公慶堂に祀られる公慶上人坐像は、東を向いて安置されています。これは、完成した大仏殿を、公慶がいつも見ることができるようにとの配慮によるものです。生前に大仏殿の完成を見ることができなかった公慶上人への、人々の深い敬慕の念が、この向きに表れているのでしょう。

本居宣長が見た大仏殿

江戸時代中期の国学者・本居宣長は、当時存在していた東大寺大仏殿と京都の方広寺大仏殿の双方を実見し、興味深い感想を日記に残しています。

東大寺大仏・大仏殿について、本居宣長は「京のよりはやや(大仏)殿はせまく、(大)仏もすこしちいさく見え給う」「堂(大仏殿)も京のよりはちいさければ、高くみえてかっこうよし」「所のさま(立地・周囲の景色)は、京の大仏よりもはるかに景地よき所也」という評価を記しています。

規模では方広寺大仏殿に劣るものの、横幅が狭い分だけ高さが際立って見え、格好良いという評価です。さらに、周囲の景色の美しさにおいては、東大寺の立地の方がはるかに優れているとしています。この評価は、建築物の価値が単なる大きさだけでなく、プロポーションの美しさや、周囲の環境との調和にあることを示すものです。奈良の豊かな自然に抱かれた東大寺大仏殿は、まさに日本的な美意識の結晶と言えるでしょう。

7. 現地情報と観賞ガイド

拝観時間・拝観料

拝観時間

  • 4月~10月:7:30~17:30
  • 11月~3月:8:00~17:00

拝観料

  • 大人(中学生以上):800円
  • 小学生:400円

大仏殿・東大寺ミュージアムのセット券

  • 大人(中学生以上):1,200円
  • 小学生:600円

注意事項

  • 法華堂(三月堂)、戒壇堂、東大寺ミュージアムはそれぞれ別途拝観料が必要です
  • 各施設の拝観時間は若干異なりますので、公式サイトでご確認ください

アクセス方法

電車・バスでのアクセス

  • JR奈良駅または近鉄奈良駅から
    • 市内循環バス「大仏殿春日大社前」下車、徒歩約5分
    • 近鉄奈良駅からは徒歩約20分
    • JR奈良駅からは徒歩約30分

京都方面から

  • 近鉄京都線で近鉄奈良駅下車(特急で約35分)
  • JR奈良線でJR奈良駅下車(みやこ路快速で約45分)

大阪方面から

  • 近鉄難波線・奈良線で近鉄奈良駅下車(快速急行で約40分)
  • JR大和路線でJR奈良駅下車(快速で約50分)

お車でのアクセス

  • 東大寺周辺には専用駐車場がないため、周辺の有料駐車場をご利用ください
  • 近隣駐車場:県営大仏前駐車場、登大路観光自動車駐車場など
  • 土日祝日や観光シーズンは混雑が予想されますので、できるだけ公共交通機関のご利用をお勧めします

所要時間の目安

  • 大仏殿のみの拝観:30分~1時間程度
  • 境内散策を含む:1時間30分~2時間程度
  • 東大寺全体(法華堂、戒壇堂、二月堂など):2時間30分~3時間程度
  • ゆっくりと写真撮影や周辺散策も楽しむ場合:半日程度

おすすめの見学ルート

標準コース(約2時間)

  1. 南大門から入り、仁王像を拝観
  2. 参道を進み、正面から大仏殿の全景を眺める
  3. 大仏殿内部を拝観(柱の穴くぐりも体験)
  4. 大仏殿東側から二月堂へ向かう
  5. 二月堂から奈良の景色を一望
  6. 法華堂(三月堂)を拝観
  7. 南大門に戻る

充実コース(約3時間)
上記に加えて、以下を巡ることで、より深く東大寺の魅力を堪能できるでしょう。

  • 戒壇堂(四天王立像は必見)
  • 東大寺ミュージアム
  • 正倉院(外観のみ)
  • 若草山の麓まで散策

周辺のおすすめスポット

春日大社
東大寺から徒歩約15分。藤原氏の氏神を祀る神社で、朱塗りの社殿と数千基の石燈籠・釣燈籠が美しく調和しています。世界遺産にも登録されており、東大寺と合わせて訪れる価値があります。

興福寺
近鉄奈良駅から徒歩約5分。五重塔と国宝館の阿修羅像で知られる法相宗の大本山です。奈良公園の一角に位置し、アクセスも便利です。

奈良国立博物館
東大寺から徒歩約10分。毎年秋には正倉院展が開催され、天平の名宝を鑑賞できます。仏教美術のコレクションも充実しており、東大寺の歴史をより深く理解することができるでしょう。

奈良公園
東大寺を含む広大な公園で、野生の鹿たちが自由に歩き回っています。鹿せんべいをあげる体験は、特に子供たちに人気です。四季折々の自然を楽しみながら、ゆっくりと散策することができます。

依水園・寧楽美術館
東大寺から徒歩約10分。池泉回遊式庭園で、借景として東大寺南大門や若草山、春日奥山を取り込んだ美しい景観が楽しめます。日本庭園の美を堪能できる、静かな空間です。

特別拝観情報

大仏様お身拭い
毎年8月7日に、大仏様の埃を払う伝統行事が行われます。僧侶や東大寺学園の生徒たちが、約200名で大仏様を丁寧に清掃します。通常の拝観時間に見学可能ですので、この日に合わせて訪れるのも良いでしょう。

万燈供養会
毎年8月15日に行われる盂蘭盆会の法要で、大仏殿の観相窓が開かれ、中門から大仏様の御顔を拝むことができます。境内には約2,500基の燈籠が灯され、幻想的な雰囲気に包まれます。夜の東大寺を体験できる貴重な機会です。

大晦日の観相窓開扉
毎年12月31日の23時頃から翌1月1日の8時頃まで、観相窓の扉が開かれ、中門から大仏様を拝むことができます。初詣の参拝者で賑わい、新年を大仏様とともに迎える特別な時間となります。

修二会(お水取り)
毎年3月1日から14日まで、二月堂で行われる伝統行事です。二月堂の本尊である十一面観音に自らの過ちを懺悔して、天下泰平、万民豊楽を祈る法要で、奈良時代の僧、実忠が、752年から始めたもので、以来1200年以上にわたり一度も欠かさずに続けられています。特に12日深夜の「お水取り」と、毎晩の「お松明」は多くの参拝者が訪れます。奈良に春を告げる風物詩として知られる行事です。

8. 参拝のマナー・心構え

東大寺は現役の仏教寺院であり、信仰の場でもあります。以下のような心構えで訪れることで、より充実した参拝体験となるでしょう。

基本的なマナー

  • 大仏殿内では静かに参拝しましょう。大きな声での会話は控えめにしてください
  • 写真撮影は可能ですが、フラッシュの使用や三脚の使用は禁止されています
  • 堂内では帽子を取るのが礼儀です
  • 飲食や喫煙は指定された場所以外では控えましょう

お参りの作法

  • 大仏様の前では、一礼してから静かに手を合わせます
  • 仏教寺院ですので、柏手を打つ必要はありません。静かに合掌するだけで十分です
  • 願い事をするというより、感謝の気持ちを伝える心持ちで参拝すると良いでしょう

鹿との接し方

  • 奈良公園の鹿は野生動物です。むやみに触ったり、追いかけたりしないでください
  • 鹿せんべい以外の食べ物は与えないようにしましょう。人間の食べ物は鹿の健康に悪影響を及ぼします
  • 小さなお子様は、保護者の方が見守ってあげてください
  • 鹿は神の使いとして古くから大切にされてきました。優しく接しましょう

心構え

東大寺大仏殿を訪れる際は、千年以上の歴史を持つ文化財であることを心に留めておくことが大切です。聖武天皇の願い、公慶上人の献身、そして数え切れない人々の信仰と努力によって、この場所は守られてきました。建築物としての美しさを鑑賞するだけでなく、その背景にある人々の想いや歴史に思いを馳せることで、より深い感動を得ることができるはずです。

9. 関連リンク・参考情報

公式サイト

  • 華厳宗大本山 東大寺 公式サイト:https://www.todaiji.or.jp/
    • 東大寺の歴史や行事、拝観情報などが詳しく掲載されています

文化財関連

  • 文化庁 国指定文化財等データベース
  • 奈良県公式ホームページ
  • 奈良市観光協会 公式サイト:https://narashikanko.or.jp/

関連施設

  • 奈良国立博物館:https://www.narahaku.go.jp/
  • 奈良県ビジターズビューロー

交通情報

  • 奈良交通バス案内:https://www.narakotsu.co.jp/
  • 近畿日本鉄道:https://www.kintetsu.co.jp/
  • JR西日本:https://www.jr-odekake.net/

画像出典

・wikimedia commons

くるくるすうがく

10. 用語・技法のミニ解説

記事中に登場した専門用語について、解説いたします。これらの知識を持って訪れることで、より深く東大寺の魅力を理解できることでしょう。

盧舎那仏(るしゃなぶつ)

サンスクリット語の「ヴァイローチャナ」を音写したもので、「光明遍照」つまり太陽のようにあまねく世界を照らす仏という意味を持ちます。華厳経の教主とされ、宇宙の真理そのものを体現する仏とされています。

東大寺の大仏は、正式には「盧舎那大仏」と呼ばれ、聖武天皇が造立を命じた日本仏教美術の象徴的存在です。華厳思想に基づいて造られたこの仏像は、単なる信仰の対象ではなく、国家統一と民の安寧を願う政治的・思想的な意味も込められていました。

大仏様(だいぶつよう)

鎌倉時代に、中国の宋から伝わった建築様式で、「天竺様(てんじくよう)」とも呼ばれます。重源上人が東大寺再建に際して採用したことで知られ、南大門がその代表例です。

特徴として、太くて力強い部材の使用、挿肘木(さしひじき)という独特の構造、貫(ぬき)を多用した構造などが挙げられます。従来の和様建築に比べて、より力強く、合理的な構造を持っており、巨大建築に適した様式でした。東大寺南大門の巨大な柱や、ダイナミックな屋根の構造などに、この大仏様の特徴を見ることができます。

寄木材(よせぎざい)

複数の木材を組み合わせて、一本の太い柱や部材を作る技法です。現在の東大寺大仏殿の柱は、この寄木材で造られています。

豊臣秀吉による方広寺大仏殿造営の際、日本各地の巨木が伐採されたため、江戸時代の東大寺大仏殿再建では、十分な太さの木材を入手することが困難でした。そこで、複数の木材を鉄の輪で締め付けて一本の柱とする、この寄木材の技法が採用されました。限られた資源の中で巨大建築を実現する、日本の職人たちの知恵と工夫の結晶と言えるでしょう。

勧進(かんじん)

寺院や仏像の建立・修理のために、広く一般から寄付を募る活動のことです。勧進を行う僧侶を「勧進僧」や「勧進上人」と呼びます。

公慶上人は、江戸時代の東大寺復興にあたり、「一紙半銭」を標語に全国を巡って勧進を行いました。これは、どんなにわずかな額でも構わないので、大仏復興に力を貸してほしいという意味です。勧進は単なる資金集めではなく、人々に仏教への信仰心を喚起し、寺院建立という大事業に参加する機会を与えるという、宗教的・社会的な意義も持っていました。民衆の一人ひとりが、わずかな喜捨によっても仏縁を結び、功徳を積むことができるという思想が、勧進の背景にあったのです。

観相窓(かんそうまど)

仏堂の外から、内部の仏像の御顔を拝むことができるように設けられた窓のことです。東大寺大仏殿の正面上部にある窓がこれにあたります。

江戸時代に再建された現在の大仏殿には、この観相窓が設けられており、通常は閉じられていますが、大晦日から元旦にかけての時間や、万燈供養会の際に開かれます。中門の位置から、この窓越しに大仏様の慈悲深い御顔を拝むことができるのです。なお、観相窓の上部には唐破風(からはふ)という装飾的な屋根が設けられており、大仏殿の外観に華やかさを添えています。

開眼供養(かいげんくよう)

仏像や仏画が完成した際に、目を描き入れる儀式のことです。これにより、像に魂が宿り、礼拝の対象となるとされます。

東大寺大仏の開眼供養は、天平勝宝4年(752年)に盛大に行われました。インド出身の僧・菩提僊那が導師を務め、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇をはじめとする要人が列席し、参列者は1万数千人に及んだと記録されています。この儀式は、単なる宗教行事にとどまらず、国家を挙げての一大イベントであり、当時の人々にとって大きな意義を持つものでした。

おわりに

東大寺大仏殿は、単なる歴史的建造物ではありません。奈良時代から現代まで1300年近い歳月を経て、2度の焼失という試練を乗り越え、聖武天皇、重源上人、公慶上人をはじめとする多くの人々の献身的な努力により、現在の姿が守られてきました。

世界最大級の木造建造物として、また世界文化遺産として、東大寺大仏殿は日本の歴史と文化を今に伝える貴重な存在です。その壮大な姿は、訪れる人々に深い感動を与え続けています。

ぜひ実際に訪れて、その規模と歴史の重みを体感してください。大仏様の慈悲深い御顔を仰ぎ見れば、千年以上前の人々と同じように、心の安らぎを得ることができるでしょう。四季折々の美しい自然に包まれた東大寺は、何度訪れても新たな発見と感動を与えてくれるはずです。そして、この場所に込められた無数の人々の祈りと想いに、きっと心を動かされることでしょう。

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